1870年代、日本は明治時代。明治初期で幕末の雰囲気がまだ残っていたことである。
このころロシアは、クリミア戦争にリベンジマッチに燃えていた。77年にロシア=トルコ戦争に勝利。しかし、ロシアの地中海進出にイギリスなどが警戒。ベルリン会議が開かれて、地中海進出は取りやめになった。
クリミア戦争のリベンジのため、改革を進める。
70年 黒海中立宣言を破棄
クリミア戦争のパリ会議で再確認された黒海中立化を破棄
黒海艦隊編成を始める。
71年 黒海艦隊を再建
74年 徴兵制を導入
ナロードニキ運動「人民の中へ」
西洋資本主義が成立していないロシア古来の農村共同体に革命的意識を吹き込む
農村共同体(ミール) → 61年農奴解放令で成立
75年 千島樺太交換条約
明治新政府との間で日本と国境を再画定
明治新政府の全権大使は
五稜郭の戦いで旧幕府軍として活躍した榎本武揚
江戸幕府時代からの外交官
クリミア戦争敗北後のため、当時の日本としては対等な条約となった。
クリミア戦争のリベンジマッチ ロシア=トルコ戦争に勝利
77年 ロシア=トルコ戦争
クリミア戦争のリベンジマッチ
オスマン帝国下のバルカン半島でキリスト教徒(東方正教会)が反乱
→ 同じ東方正教会のロシアがこの反乱を支援
黒海艦隊の編成や徴兵制の導入により
ロシア帝国がリベンジ達成
78年 サンステファノ条約
ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立承認
ブルガリアはロシアの保護国下
領土を拡大、地中海沿岸まで進出
→ ロシア海軍が地中海に艦隊が置けるようになる。
→ これに対し、イギリスが警戒
ロシア版三国干渉 ベルリン条約
78年 ベルリン条約
露土戦争版三国干渉
ロシア=トルコ戦争で地中海進出を果たしたロシア帝国に対し
イギリスとオーストリアが反発
当時のキングメーカー、ドイツのビスマルクが調停に入った。
ベルリン会議である。
当時のバルカン半島と強国の位置関係
ロシア 帝国 → バルカン半島の北東に位置する。
バルカン半島経由で、地中海への進出を果たしたい。
同じ正方教会を支援
オスマン帝国 → バルカン半島の南東に位置する
バルカン半島の旧宗主国
イスラム教国
オーストリア帝国
→ バルカン半島の北西部に位置する。
オスマン帝国からヨーロッパを守り続けていた。
キリスト教、カトリック
イギリス → バルカン半島南西部 地中海の対岸のエジプトを植民地化
インドへの交易路確保のため、
地中海の制海権を確保したい。
キリスト教プロテスタント(イギリス英教会)
ベルリン条約の内容
ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立承認 → 追認
ブルガリアはロシアの保護国下 OK
ただし、領土を縮小 → 地中海沿岸はトルコ領
ロシアの地中海沿岸の拠点はなくなった。
オーストリア → ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得る。
隣国セルビアは反発
このころ日本は