1820年代のペルシア カジャール朝 ペルシア版不平等条約 トルコマンチャーイ条約
1820年代、日本は徳川家斉の治世。好景気に沸き、化政文化が花開いた。
このころ、カジャール朝はロシア帝国に敗戦。ペルシア版不平等条約 トルコマンチャーイ条約を締結する。これにより、カジャール朝はヨーロッパに対し治外法権を認めたほか、多額の賠償金を負った。これが、ペルシアの半植民地化の始まりとなった。
ペルシア版不平等条約、トルコマンチャーイ条約
26年 ロシアと戦争
ロシア帝国にうばわれたカフカス地方奪還を目指す。
当時、ロシア帝国はデカブリストの乱で弱っていた。
イギリスの支援を受ける
28年 トルコマンチャーイ条約
ロシアに治外法権
→ 1843年 虎門賽追加条約 (清王朝・アヘン戦争)
→ 1858年 日米通商修好条約(日本)
(カフカス地方)東アルメニアの割譲
カスピ海のロシア軍艦の独占航行権
多額の賠償金
→ カジャール朝は一貫して財政難
→ ヨーロッパから資金調達。イギリスなどに頭が上がらない。
カジャール朝は、イギリスなど他の西欧列強とも不平等条約を締結。
イギリス・ロシアの半植民地に
ロシアの従属化 → ロシアの支援でアフガンへ侵攻
このころのロシアは ~デカブリストの乱~
21年 ギリシア独立戦争
オスマン帝国との黒海地中海をめぐる戦いが始まる
21年 アラスカ獲得
25年 ニコライ1世即位
冷徹な専制主義者
アレキサンドル1世の反動強権政治を継承
25年 デカブリストの乱
ナポレオン戦争で活躍した青年将校の反乱
ニコライ1世の即位に反対
18年から始まる、アレクサンドル1世の反動強権政治
→ 英仏のような立憲国家建設を目指す。
ナポレオン戦争でイギリス・フランスの立憲政治を知る
このあと、知識階級による社会主義勢力が台頭
26年 カジャール朝ペルシアと戦争
28年 カジャール朝ペルシアに勝利 → トルコマンチャーイ条約
このころのイギリスは ~カトリック優遇政策~
カトリック教徒の多いアイルランドへ配慮した政策
イギリスはプロテスタント(イギリス国教会)
審査法廃止、カトリック教徒解放法
20年 ジョージ4世即位
大酒のみで健康状態が悪く、あまり政治に干渉しなかった。
カニング外交
トーリー党(保守党)リヴァプール伯爵内閣
小ピットの下で政治を学ぶ
カトリック派優遇政策をとったため、党内から批判を浴びる。
そのため、自由党の穏健派と連携をとった。
次回予告
「1810年代のペルシア カジャール朝 ロシア帝国にアゼルバイジャンを割譲」
このころの日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は