1820年代のフランス シャルル10世の反動政治とギリシャ独立戦争
ウィーン体制によって、ブルボン朝は復活した。しかし、絶対王政に戻ることはできず、イギリスと同じ立憲君主制となった。また、参政権を得たのは大資本家のみでほとんどの国民は選挙権を得られなかった。24年シャルル10世が即位すると貴族向けの反動政治を行ない、国民の反感を買う。これが七月革命につながる。
ウィーン体制時のフランス
ウィーン体制で、ブルボン朝は復活した。しかし、フランス革命以前の絶対王政まで戻ることはできなかった。制限選挙による立憲君主制である。この制限選挙で参政権を得たのは一部の富裕層に限られた。フランス革命以前と利害関係は変わった。国王ルイ18世は、現在の体制を維持つすることで手いっぱいで増税ムードは高くなった。また、立憲君主制に移行しており貴族(地主)は地代の無償廃止によって多くのものが没落していった。一方、資本家(ブルジョワ)は、選挙権を得て政治的発言力を高めていた。しかし、選挙権を得たのは大資本家のみで、労働者や産業資本家(中小企業の社長や自営業者)は選挙権を得られなかった。農民は、選挙権は得られなかったものの地代の無償廃止によって生活は安定した。そのため保守化していった。一方、パリ民衆はいまだ生活は苦しい。しかし、フランス革命の経験で暴動によって政治を動かせることを知る。19世紀前半のフランスの革命は、パリ市民の暴動によって始まる。
20年代のヨーロッパ情勢 ギリシャ独立戦争
20年代の国際情勢、ヨーロッパ各地で自由主義革命が起きていてヨーロッパ王室はこの弾圧に苦慮していた。
21年、オスマン帝国内のギリシアで独立戦争が起こる。ルイ18世は、自由主義的世論に押されてギリシア側で参戦。神聖同盟参加国の動向は、以下のとおりである。
ギリシア側
フランス
イギリス、ロシア → 19世紀前半の2強
オスマン帝国側
エジプト(この戦争の活躍により、自治権を得る。)
中立
オーストリア(神聖同盟)→ 自国の民族運動への波及を恐れる。
29年オスマン帝国はギリシア独立を承認。翌30年ロンドン会議で国際的にギリシアの独立が承認された。この戦争の勝利によって、ロシアは、黒海沿岸をオスマン帝国が割譲される。ロシアは、この後地中海進出を狙ってバルカン半島のスラブ人の独立を支援するようになる。
また、ギリシアの独立によって、バルカン半島の諸民族が独立運動が活発化する。ヨーロッパ諸国はこれを支援するようになる。この問題を東方問題という。
シャルル10世の反動政治
24年、ルイ18世が亡くなると、王党派の支援を得てシャルル10世が即位。貴族を重視する反動政治を行った。
30年、地中海の対岸オスマン帝国のアルジェリアに出兵。しかし、反動政治の反発から反国王派が圧勝。国王シャルル10世は議会を解散。30年7月の七月革命につながる。
そのころ日本は
そのころの中国は