10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1870年代のペルシア カジャール朝 ロイター利権と第2次アフガン戦争

 1870年代、日本は明治初期。ヨーロッパへの脅威を払拭するため富国強兵に努めていた。

 このころのカジャール朝ペルシアも、日本同様ヨーロッパの脅威にさらされていた。
ロシアとイギリスである。
 カジャール朝ペルシアは、国王がイギリスに利権を渡すロイター利権問題が発生した。また、東隣のアフガン王国では第二次アフガン戦争が起きていた。

 

カジャール朝ペルシア、ロイター利権問題

 カジャール朝ペルシアの国王は、ナーセロッディーン国王であった。

 72年、ナーセロッディーン国王は、イギリスのロイター男爵にロイター利権を渡した。ちなみにロイター男爵はロイター通信社の創業者である。
 ロイター利権とは、カスピ海からペルシア湾までの鉄道施設権、鉱山の採掘権、国立銀行設立権などがあった。
 この問題について、ロシアとペルシャ商人が反発。ロイター男爵は鉱山採掘権と国立銀行設立権以外を放棄した。1885年、ロイター男爵はこの利権を利用してペルシア帝国銀行を設立した。
 しかし、カジャール朝ペルシアは、ロイター利権の違約金で財政が圧迫される。

 73年、ナーセロッディーン国王は、ペルシア君主としては初めてヨーロッパ歴訪を行った。この時、ヴィクトリア女王から勲章を受けている。

 

第2次アフガン戦争でイギリスの保護国になる。

ロシアの中央アジア進出とイギリス領インド帝国の成立

 ロシアとイギリスは、アジア全域でグレートゲームを展開していた。
 60年代、ロシアは中央アジアの国々を併合。71年、ロシアは、清王朝のイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区)のイスラム教徒の反乱に介入。同地を支配した。81年のイリ条約で清王朝へ返還した。
 一方、イギリスは、77年、イギリス領インドでは、ヴィクトリア女王がインド国王を兼任することになった。

第二次アフガン戦争

  1878年
  ロシア、アフガン王国と軍事同盟
  イギリス、アフガン王国に外交使節常駐を要求
   → アフガン王国はイギリスの要求を拒否
   → 第二次アフガン戦争が始まる。

 1879年
  アフガン王国、第二次アフガン戦争に敗北
   → アフガン王国はイギリスの保護国

 保護国ってなに?

  形式上独立はしているものの、外交、財政、軍事など国家の重要な事項をほかの国(宗主国)に握られている国家
  アフガン王国の場合、外交権をイギリスが握ることになる。

 

このころのロシアは

 当時のロシアは、クリミア戦争のリベンジに燃えていた。一方でバルカンへの進出をあきらめ、アジアへの侵攻を進めていた。中央アジアへの進出もその一環である。
 73年、ビスマルク外交の一環でドイツ・オーストリアと三帝同盟を締結
 75年、日本の明治政府と樺太・千島交換条約を締結した。
 77年、露土戦争に勝利。クリミア戦争のリベンジを果たすも、78年のベルリン会議でイギリスなどの干渉を受ける。(余談だが、このことが日清戦争後の三国干渉で活かされる。)ちなみに、この会議を仕切ったのがドイツ帝国ビスマルクである。

このころのイギリスは

 当時のイギリスは、ヴィクトリア女王の黄金期である。政治は保守党と自由党の2大政党制が確立していた。この時期はディズレーリー保守党内閣の時代である。ディズレーリー首相は帝国主義政策を推し進めた。このころ、エジプトのスエズ運河買収を行っている。

 


   

次回予告

1860年代のペルシア カジャール朝 ロシアの中央アジア進出」

このころの日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 

このころのヨーロッパは

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 

このころの中国は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com