1830年代、江戸時代後期。化政バブルが終わり、寛政の大飢饉が発生したころである。
ヨーロッパでは、フランスで七月革命が発生。
インドでは、第一次アフガン戦争が勃発した。
前回の復習 1840年代のインド
1840年代、インドでシク戦争が発生。シク王国が滅亡。東インド会社がインド全域を支配した。今回は、その直前に行われた第一次アフガン戦争を見ていきます。
1830年代の世界
フランスで七月革命が発生。
宗主国、イギリス ヴィクトリア女王と第一回選挙法改正
イギリスでは、ヴィクトリア女王が即位した。このころ、選挙法改正で資本家に選挙権が拡大した。
東インド会社
東インド会社は、インドや中国との交易のために設立された国営企業である。16世紀に入ると、インドの領主となり税収が入るようになった。東インド会社は、商業収入と税収が主な収入源であった。しかし、1813年インド交易が自由化。1930年時点では、清王朝(中国)との交易とインドからの税収が収入源となっていた。
中国交易の独占権を失う
32年の第一回選挙法改正で産業資本家に選挙権が与えられた。このころ都市部は保護貿易政策による食料品価格の高騰に苦しんでいた。そのため、産業資本家によって当選した政治家を中心に貿易の自由化が求められるようになった。この流れの中で、東インド会社の清王朝との貿易独占権をはく奪した。(イギリスのすべての承認が清王朝と貿易が可能になった。)
三角貿易と林則徐
東インド会社の清王朝との交易は、インド産アヘン(麻薬)を清王朝へ販売し、清王朝からお茶を輸入していた。当時、インドは、イギリスの産業革命により綿工業が壊滅した。そのため貧しくなった。そのため、新たな産業として生まれたのが、綿花の栽培とアヘン(麻薬)の栽培。また、イギリスの都市部は急激な水質汚染が発生。水をそのまま飲めなくなり、紅茶にして飲むようになった。そのため、清王朝産茶葉の需要が急激に高まった。
清王朝との貿易が自由化されると、多くの商人がインドと清王朝との交易に参入した。これにより、清王朝へのアヘンの流入と銀の流出が激しくなった。この事態を重く見た清王朝は、広州に林則徐を派遣した。当時、清王朝は交易を広州に限っていた。
林則徐は、アヘンの取り締まりを強化した。林則徐は大量のアヘンを没収し焼却処分した。これにより大きな損失をだしたイギリス商人は、政府に支援をもとめた。これにより始まったのがアヘン戦争である。
インドからの徴税収入
一方、東インド会社は、商業活動を停止。インド経営に注力するようになる。東インド会社は、農民への増税、地主階級(東インド会社の代わりに徴税を行う代わりに土地の所有権を得たもの)の排除、藩王国(東インド会社から一定の自治を求められた王国)の取り潰しが行われた。このことは、インド人に反英感情を抱かせ、1850年度のセポイの反乱につながった。
第一次アフガン戦争
アフガンは、現在のパキスタン(当時は、シク王国)の西にある国である。そのさらに西にあるのカジャール朝ペルシア。北にはロシア帝国があった。
37年、カジャール朝ペルシアは、ロシアの支援を得てアフガン王国へ侵攻した。東インド会社はシク王国と同盟を結び、アフガン王国を支援。カジャール朝ペルシアにアフガン王国の独立を容認した。
このころの日本は
中国情勢
カジャール朝ペルシア