1830年代のペルシア カジャール朝 第一次アフガン戦争
1830年代、江戸時代後期。日本は徳川家斉の好景気が終焉。天保の大飢饉が起きたころである。大阪では大塩平八郎の乱が行われている。
このころ、カジャール朝ペルシアでは、第一次アフガン戦争の真っただ中にあった。この戦争は、カジャール朝ペルシアとアフガンの戦争であったが、イギリスとロシアの代理戦争でもあった。
この戦争で、カジャール朝ペルシアは敗北。この敗北により、カジャール朝ペルシアは、ロシアだけでなく、イギリスの影響も受けるようになる。
第一次アフガン戦争
38年 カジャール朝ペルシア、アフガンへ侵攻(第一次アフガン戦争)
ペルシアはロシアの支援を受けていた。
これに対し、イギリス(イギリス領インド)もアフガンへ侵攻
38年、カジャール朝ペルシアはアフガンの独立を認めた。
このころ、ロシアは
当時のロシア皇帝は、ニコライ1世である。
ロシアの最大の関心ごとは不凍港の獲得である。
その最有力コースは、オスマン帝国が握る黒海地中海ルートであった。
エジプト=トルコ戦争
当時、オスマン帝国はエジプト独立問題に悩まされていた。
ロシア帝国は、一貫してオスマン帝国を支援していた。
不凍港 → ロシアの大部分の港は冬場凍るため使用ができない
そのため、冬でも出向できる港が欲しかった。
一方、エジプト側についたは、のちにスエズ運河を建設するフランスであった。
31年 第1次エジプト=トルコ戦争
ロシアの進出を警戒したイギリスが干渉して休戦
ロシアは、オスマン帝国からダーダネルス=ボスフォラス海峡の独占航行権を獲得
39年 第2次エジプト=トルコ戦争
40年 ロンドン会議
エジプトの独立が認められる。
ロシアは、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権を失った。
→ この自由航行権をめぐり、53年クリミア戦争が勃発する。
ダーダネルス=ボスフォラス海峡とは
黒海と地中海を結ぶ海峡。オスマン帝国の首都、イスタンブルのすぐ近くであった。
黒海はロシア帝国(北)とオスマン帝国(南)に挟まれた海である。ロシア帝国はダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権が認められるとロシア海軍が自由に地中海に出られることになる。
30年 ポーランド大反乱
1815年のウィーン会議で、ポーランドはロシアと同君連合であった。ポーランドはカトリック教であったため、ロシア正教会を受け入れることができなかった。
30年、ポーランドで大反乱がおきる。ロシア皇帝はこれを鎮圧。32年、ポーランドはロシアに併合された。
イギリス、2大政党制とヴィクトリア女王即位
30年 ウィリアム4世即位
海軍出身、
前国王の兄ジョージ4世とちがい、質素な生活を送った。
32年 第1回選挙法改正
資本家が参政権を獲得
2大政党制
自由党 → 産業資本家 → 自由貿易
保守党 → 地主 → 植民地の拡大
33年 工場法確立 世界最初の労働基準法
34年 自由貿易政策 東インド会社の中国貿易独占権の廃止
東インド会社は、貿易から撤退。インド経営に尽力する。
37年 都市労働者による男子普通選挙を求める運動(チャーチスト運動)
1867年 第2回選挙法改正で都市労働者に参政権
37年 ヴィクトリア女王が即位。
わずか、18歳で即位。
63年のヴィクリア黄金期が始まる。
次回予告
「1820年代のペルシア カジャール朝 イラン版不平等条約トルコマンチャーイ条約」
このころの日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は