1810年代のロシア ロマノフ朝 アレクサンドル1世 ナポレオン戦争とウィーン会議でロシア帝国は強国に
1810年代、日本は江戸時代後期、化政文化が花開いていた時代であった。
このころ、ヨーロッパはナポレオン戦争の真っただ中にあった。1815年ウィーン海意義でナポレオン戦争は終結。1914年の第一次世界大戦までヨーロッパでは大きな戦争が起こらなくなる。
ロシア帝国も、ナポレオン戦争の戦勝国に加わったことでヨーロッパ強国の仲間入りを果たすことができた。
ナポレオン戦争に勝利、ロシア帝国は強国の仲間入り
10年12月 ロシア帝国、大陸封鎖令を破棄してイギリスとの貿易を再開
12年 ロシア=トルコ戦争終戦
12年05月 ナポレオン ロシア遠征
アレクサンドル1世は焦土作戦で抵抗。
12年12月 冬将軍の到来により、ナポレオン軍は壊滅的敗退
13年02月 第4回対仏大同盟
13年10月 諸国民戦争で、ナポレオン軍敗退
14年03月 パリ陥落
ウィーン会議で100年にわたるヨーロッパの平和が訪れる。
会議は踊る ウィーン会議
14年 ウィーン会議
15年06月 ナポレオンの百日天下終了(ワーテルローの戦い)
ウィーン議定書で、ロシアはポーランド王を兼任
15年 ウィーン議定書
正統主義 敗戦国フランス(ブルボン朝)のタレーランが主張
原則は、革命前の国境を維持
一時国家が消滅した オーストリアが同調
神聖同盟 19世紀版の国際連合
ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱
目的 ) フランス革命のような自由主義革命に対抗
19世紀版国際連合
ヨーロッパの大部分の国が参加
不参加
イギリス → 自由主義国が増えれば、自国製品の市場が大きくなる
ローマ教皇(カトリック) → 東方教会のロシア帝国が嫌い
オスマン帝国 → イスラム教国なので入れない
四国同盟 19世紀版常任理事国
イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリア(のちにフランスが参加)
一方、徳川幕府とも国境紛争(ゴローニン事件)
18世紀に入ると、ロシアは蝦夷地(北海道)にたびたび侵入。アイヌ人と交易やキリスト教の布教を行った。
11年、徳川幕府はロシア海軍のゴローニンを拿捕する事件が起こる。当時、ゴローニンは千島列島の測量を行っていた。
次回予告
ナポレオン戦争とトルコ、ペルシア侵攻」
このころの日本は
ナポレオン戦争で敗北したフランスは