10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1860年代のペルシア カジャール朝 ロシアの中央アジア進出

 1860年代、日本では250年続いた江戸時代がおわり、明治新政府が成立した。いわゆる幕末と呼ばれる時代。

 このころ、ペルシア・中央アジア地域の最大の課題は、ロシアの中央アジアの進出であった。

 

 

南北戦争と綿花高騰

 61年、アメリ南北戦争勃発。アメリカからの綿花の供給が止まり、綿花価格が急騰した。ロシアは、中央アジアトルキスタンの綿花を求めて侵攻。
  

中央アジア、コーカンド=ハン国 攻防戦

 64年、ロシア帝国トルキスタン(コーカンド=ハン国)に進出した。一方で、インドを支配しているイギリスはこれを脅威に感じ、中央アジア諸国を支援した。
 67年、コーカンドハン国はロシアの支配下に入った。

このころのペルシアとアフガンは

  アフガン王国は、63年、ドースト=ムハンマド=ハーンが統一していた。ドースト=ムハンマド=ハーンは、57年インド大反乱でイギリスを支援して活躍した。
 63年、シール=アリー=ハーンが国王を承継すると、王位をめぐり内紛状態となった。

 一方、カジャール朝ペルシアはナーセロッディーン国王の時代である。57年のイギリスとの戦争に敗れ、関税自主権を失った。また、多くの利権をヨーロッパ各国に渡した。ペルシアの反植民地化の歴史がここに始まった。

このころのロシアは

 ロシアは、アレキサンドル2世の時代である。56年にクリミア戦争に敗北。富国強兵政策を進めていた。

 一方で、黒海・地中海への進出をあきらめ、それ以外の地域での不凍港獲得に野心を燃やしていた。中央アジアの他、中国(清王朝)への進出も進めた。60年の北京条約では日本海のウラジオストークを獲得した。

このころのイギリスは

  イギリスは、普通選挙運動が活発。このころ頻繁に選挙法が改正された。
 イギリスは、インドの直接統治を始めた。
 一方で、アロー戦争に勝利。中国(清王朝)への進出も本格化した。

次回予告

1850年代のペルシア カジャール朝 クリミア戦争の裏側で落ち着くカジャール朝ペルシア」

このころは日本は

 

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このころのヨーロッパは

 

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このころの中国は

 

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