1860年代、日本では250年続いた江戸時代がおわり、明治新政府が成立した。いわゆる幕末と呼ばれる時代。
このころ、ペルシア・中央アジア地域の最大の課題は、ロシアの中央アジアの進出であった。
南北戦争と綿花高騰
61年、アメリカ南北戦争勃発。アメリカからの綿花の供給が止まり、綿花価格が急騰した。ロシアは、中央アジアトルキスタンの綿花を求めて侵攻。
中央アジア、コーカンド=ハン国 攻防戦
64年、ロシア帝国はトルキスタン(コーカンド=ハン国)に進出した。一方で、インドを支配しているイギリスはこれを脅威に感じ、中央アジア諸国を支援した。
67年、コーカンドハン国はロシアの支配下に入った。
このころのペルシアとアフガンは
アフガン王国は、63年、ドースト=ムハンマド=ハーンが統一していた。ドースト=ムハンマド=ハーンは、57年インド大反乱でイギリスを支援して活躍した。
63年、シール=アリー=ハーンが国王を承継すると、王位をめぐり内紛状態となった。
一方、カジャール朝ペルシアはナーセロッディーン国王の時代である。57年のイギリスとの戦争に敗れ、関税自主権を失った。また、多くの利権をヨーロッパ各国に渡した。ペルシアの反植民地化の歴史がここに始まった。
このころのロシアは
ロシアは、アレキサンドル2世の時代である。56年にクリミア戦争に敗北。富国強兵政策を進めていた。
一方で、黒海・地中海への進出をあきらめ、それ以外の地域での不凍港獲得に野心を燃やしていた。中央アジアの他、中国(清王朝)への進出も進めた。60年の北京条約では日本海のウラジオストークを獲得した。
このころのイギリスは
イギリスは、普通選挙運動が活発。このころ頻繁に選挙法が改正された。
イギリスは、インドの直接統治を始めた。
一方で、アロー戦争に勝利。中国(清王朝)への進出も本格化した。
次回予告
「1850年代のペルシア カジャール朝 クリミア戦争の裏側で落ち着くカジャール朝ペルシア」
このころは日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は