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1860年代の中国の歴史 清王朝 同治帝 宗教反乱(太平天国の乱)鎮圧で、漢人官僚が活躍

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太平天国の乱で活躍した李鴻章


 60年、北京条約でアロー戦争は終結したが、江南では、太平天国キリスト教国家が成立していた。この鎮圧には、漢人官僚や外国人兵が活躍した。64年太平天国の乱が鎮圧されると一時的な安定期に入った。このころ漢人官僚を中心に欧米技術を取り入れようと洋務運動が始まった。

アロー戦争後の欧州列強の状況

 イギリス・フランス連合軍と行われていたアロー戦争は、シベリアに進出したロシアの仲介により北京条約が締結され終結した。これにより、外国人の中国国内旅行の自由や外国公使の北京駐在が認められた。これにより、清王朝は、61年朝貢とは別の対等外交を行う部署として総理衙門(今の日本でいうと外務省)を設置した。天津や長江の港を多く開港した。
 戦勝国のイギリスは、北京条約で新たに開港した長江流域とアヘン戦争で得た香港を中心に市場を拡大していった。当時のイギリスは、ヴィクトリア女王の全盛期であった。このころになると2大政党制が確立し議会が政治を動かすようになっていた。また、このころ都市労働者にも選挙権が与えられた。一方で、ヨーロッパ諸国で産業革命が進み、ヨーロッパ諸国で工業製品が売れなくなっていた。そのため、植民地政策を進めていた。
 同じ戦勝国のフランスは、ナポレオン三世第二帝政の時代であった。東南アジアのベトナムに拠点を築いた。しかし、メキシコ出兵の失敗や、プロイセン(のちのドイツ)との戦争で、中国進出どころではなくなった。
 仲介国のロシアは、北京条約で日本海沿岸にウラジオストークを得た。当時のロシア帝国は、アレクサンドル2世の時代であった。56年のクリミア戦争の敗戦の反省から、改革を進めていた。農奴解放令はその一つである。この時期、アラスカをアメリカに売却している。

 

江南で起きた太平天国の乱が鎮圧

 国内では、江南の太平天国の南京(天京)政府は、華北へ進軍していた。清王朝常備軍はこれを防ぐことはできなかった。これを鎮圧したのは、長江流域に勢力圏をもつ漢人官僚、曽国藩や李鴻章の私兵と、アヘン戦争で開港した上海にいた外国兵であった。太平天国は、64年にようやく鎮圧された。
 15世紀初頭の明王朝永楽帝の時代から首都は華北の北京であり、華北の人々が江南の人々を支配する体制になっていた。そのため、多くの反乱は江南から始まる。清王朝の皇帝は、漢人ではなく中国東北部満州にすむ女真族であった。太平天国の乱で漢人官僚が活躍したことで漢人の地位が高まった。

70年代の北京の状況

 60年同治帝が即位(前皇帝は威豊帝)。64年、太平天国の乱が鎮圧されると、国内秩序は一時的に安定した(同治の中興)。欧米技術を取り入れようと洋務運動が始まる。洋務運動を主導したのは、太平天国の乱で貢献した漢人官僚、曽国藩や李鴻章らであった。彼らは、華北の北京ではなく、ヨーロッパの影響が強い長江流域を拠点としていたため、洋務運動の必要性を感じていた。ただし、洋務運動は、あくまで経済と軍事面でのみ取り入れようとして、内閣制度のような政治分野まで適用しなかった点が日本の明治維新や1890年代の変法運動との違いである。
 70年代の華北(北京周辺)は、北京条約で、北京近くの天津港が開港。沿海州はロシアに割譲。北京には外国公使が駐在するようになった。そのため、北京にすむ中央官僚も危機感を感じ、洋務運動の必要性を感じたものと思われる。

そのころ日本は

 

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