1850年代のロシア帝国 ロマノフ朝 ニコライ1世 19世紀最大の戦争、クリミア戦争
1850年代、日本にはペリーが来航。幕末の動乱が始まった。
このころ、ロシア帝国は大きな戦争がおこった。クリミア戦争である。
53年クリミア戦争
48年革命が生んだ2人の皇帝が激突
48年革命は2人の英雄を生んだ。二月革命で成立したフランス第二共和制が生んだナポレオン3世と48年革命の鎮圧で尽力したロシア皇帝ニコライ1世である。
フランスのナポレオン3世は、フランス革命期に放棄したイェルサルムの管理権をオスマン帝国に要求。オスマン帝国はこれを了承した。それまで、イェルサルムの管理権を持っていたニコライ2世は激怒。クリミア戦争はここに始まった。
クリミア戦争の勢力
ロシア側
オスマン帝国側
オスマン帝国
フランス(ナポレオン3世)
反ギリシア正教会(カトリック・プロテスタント)
イギリス → エジプトへの影響力を高めたい。
サルディーニャ王国(のちのイタリア)
プロイセン(のちのドイツ)
オーストリア
クリミア戦争は、日本にも影響(ペリー来航)
クリミア戦争は、ヨーロッパ・中東はもとより東アジアも戦場となった。イギリス・ロシア両国は、この時期に日本に使者を送っている。
また、アメリカも混乱に乗じて、使者を送っている。ペリー来航である。
53年 ロシア、プチャーチン、長崎来航(ペリー来航)
54年 日露和親条約
ロシア帝国、クリミア戦争に敗戦(パリ条約)
55年 アレクサンドル2世即位
クリミア戦争中にニコライ1世が死去
クリミア戦争後に上からの改革を進めることになる
アレクサンドル2世が即位する。
56年 パリ条約 クリミア戦争に敗戦
41年の五国海峡条約の確認
ダーダネルス=ボスフォラス海峡の閉鎖
黒海中立化
ドナウ川自由航行の原則
ドナウ川 → バルカン半島の北に名が得る川
ライン川とともにローマ帝国の国境になった川
アロー戦争で、ロシア帝国は矛先を東アジアへ
56年 アロー戦争
クリミア戦争に勝利したイギリス・フランス両軍はその軍隊を清王朝に向けた。アロー戦争である。
58年 アイグン条約
60年 北京条約
ロシア、アロー戦争(第二次アヘン戦争)を仲介
沿海州(ウラジオストーク)を得る。
対馬もしくは津軽海峡経由で太平洋に出たい。
→ 江戸幕府・明治新政府に大きな脅威を与える。
次回予告
このころ、日本は
クリミア戦争の相手国フランスは