1900年代のペルシア カジャール朝 日露戦争の影響を受けて立憲革命へ
1900年代、日本は明治時代末期。日本は日露戦争でロシアに勝利した。このニュースはヨーロッパ列強に分割らされたアジア各国に衝撃を与えた。ペルシアもその例外ではない。
カジャール朝ペルシアでは、日露戦争に勝利した年、立憲革命がおき、近代化を進めていった。
1900年代、帝国主義の時代
1900年の世界は、帝国主義の時代である。アジアは、ロシアとイギリス(イギリス領インド)のグレートゲームが展開されていた。そのような中、新たな列強が参戦した。ドイツである。1899年、ドイツはオスマン帝国からバグダード鉄道の施設権を得る。3B政策の始まりである。
ペルシアは、北のロシア、東のイギリス(インド)、西のドイツ(オスマン帝国)に囲まれていた。
北の脅威ロシアが、日露戦争に敗北
00年 財政改革
ロシアからの借款
関税収入の確保
→ ヨーロッパのイラン支配の印象
01年 イラン、石油採掘権をイギリスに与える。
04年 日露戦争勃発
ロシアからの輸入が激減 → 物価が高騰
05年 日本が日露戦争に勝利
日本に続け、立憲革命
カジャール朝ペルシアは、日露戦争の影響でロシアからの輸入が止まる。その結果首都テヘランは物価高騰した。そのため、テヘランで暴動がおこった。
また、日露戦争の勝利の要因の分析が始まった。それが、日本に議会があることとなった。このため、カジャール朝ペルシアに対し、議会の設立を求める声が高まった。
05年 12月 カジャール朝ペルシア、テヘランで物価騰貴
06年 イラン憲法成立
08月 カジャール朝、憲法制定を決定。
10月 憲法制定議会を招集
12月 憲法発布
グレートゲームの終焉、英露協商
05年、日露戦争が終結。英露の対立はすべて解決した。ロシアは、バルカン半島をめぐり、ドイツ・オーストリアと対立が激化。07年08月、ロシアは、イギリスと英露協商を結んだ。
英露の対立は、イギリス領インドとロシアの勢力争いにあった。これらは以下のように定めれれた。
カジャール朝ペルシア
ロシア 北部を勢力圏(主要都市はここに含まれる。)
イギリス 東部の乾燥地帯を勢力圏
中部 両国緩衝地帯。
アフガニスタン
イギリスの勢力圏
イラク(オスマン帝国)
オスマン帝国は、ドイツ帝国側についている。
そのため、イギリス・ロシアはイラン側からオスマン帝国を攻撃。
これにより、世界は、イギリス・ロシア・フランス陣営とドイツ・オーストリア陣営に分かれた。この対立軸が第一次世界大戦につながる。
立憲派と非立憲派の対立
一方、カジャール朝ペルシアは、立憲革命で議会が成立したものの反対派により停止された。その後、立憲派と非立憲派の対立が始まった。
07年 カジャール朝ペルシア、アリー国王即位。クーデターで議会を停止。
08年 カジャール朝ペルシア、油田発見
08年 オスマン帝国、青年トルコ革命
08年 カジャール朝ペルシア、反立憲派による揺り戻し
→ 北部を中心に立憲派が抵抗
09年 カジャール朝ペルシアで国民軍蜂起
次回予告
「1890年代のペルシア タバコボイコット運動」
そのころ日本は
そのころのヨーロッパは
そのころの中国は