5世紀の中国 南北朝時代 北魏が華北を統一。江南では貴族文化が花開く。
5世紀の日本は、各地で巨大古墳が作られた。また、このころ南朝に朝貢を行っていた。
そのころの中国では、華北の五胡十六国の戦乱が終わり、北魏が華北を統一。漢化政策を進めるとともに、各地に石窟寺院が作られた。
一方、江南では、短命王朝が続いていたが、貴族文化(六朝文化)が花開いた。
鮮卑族の北魏王朝が華北を統一、中国同化政策を行う(北朝)
439年、鮮卑族の拓跋氏の北魏王朝が華北を統一。五胡十六国の戦乱期が終わる。都は北京周辺の大同におかれた。華北を統一した太武帝は、道教を信仰し、仏教を弾圧した。しかし、太武帝がなくなると、仏教は保護され石窟寺院(雲崗石窟寺院)が作られ始めた。
471年、孝文帝が即位。中国同化政策(漢化政策)を行う。
- 均田制 農地の私有を認めず、国家が農民に農地を貸し出す。
貴族の大土地所有を制限
曹操時代の屯田性を応用
しかし、奴隷(小作人)や牛馬など資産状況も配慮して配分。 - 三長制 戸籍、納税等の管理システム
- 洛陽遷都 大同からかつての後漢の都洛陽に遷都
竜門石窟寺院を建てる。 - 漢化政策 遊牧民族のピタッとした服装から、漢王朝の着物風の服装
椅子→正座 など
北方騎馬民族社会では、モンゴル系の柔然が登場したが、北魏王朝が華北を統一すると北魏王朝に服従した。
貴族社会の六朝文化(南朝)
長江流域の建康(現在の南京)に遷都した晋王朝は、その後王朝交代を繰り返した。
一方で、多くの貴族が長安から建康へ移り住んだ。また、このころ日本から南朝への朝貢が行われた。(倭の五王)
王朝交代では、420年宋王朝、479年には斉王朝が建国した。
3世紀の曹操時代に成立した九品中正は、この時代になるとほぼ家柄で決まるようにようになっていた。上級官僚は特定の家柄で占められるようになる。これを門閥貴族という。彼らは、多数の奴隷(小作人)を使い大規模農園を経営していた。文化面では、儒教がすたれ、道教の清談が流行した。
このころの日本は