10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

3世紀の中国 魏晋南北朝時代 三国志の時代、曹操が作った政治システム

3世紀は、三国志の時代である。劉備関羽諸葛亮孔明が活躍したのがこの時代である。しかし、世界史的に重要なのは、曹操の画期的政策である。九品中正は6世紀聖徳太子の官位十二階につながる。
なお、この時代に邪馬台国卑弥呼魏王朝に使いを送っている。

 

三国の特徴

 この時代になり、主要豪族は3人になる。漢王朝の首都を含む北部黄河流域を支配した三国志の悪役、魏の曹操。南部長江流域を支配した呉の孫権。そして四川省などの中国大陸南東部の山岳地帯を支配した三国志の主役、蜀の劉備である。ただし、ここでは三国志の詳しい話は割愛する。
魏の支配領域は華北と呼ばれ、呉の支配エリアは、江南と呼ばれる。この後、中国の王朝はこの2つのエリアに分かれることがある。ちなみに、華北は東北~北海道ぐらいの寒さで、主として小麦が栽培されている。ラーメンなどの麺類や餃子などが主食になる。そのため、江南に対して貧しい。一方、江南は、日本でいえば関東~西日本くらいの比較的に暖かいエリアである。主にが栽培されている。チャーハンに象徴されるようにご飯文化が進んでいる。
再び3世紀の世界に戻る。この当時のパワーバランスは、魏が圧倒的に強かった。

東アジア全体の見本となる曹操の政治政策

曹操は、特徴的な政治政策をとった。これらの政策は、その後の東アジアの国々で採用された。6世紀~7世紀の日本の律令制もこの影響を受けている。
人事制度では、自分の目で採用を行った。これがのちの九品中正につながる。漢の郷挙里選との違いは、郷挙里選は、地方の豪族が推薦するのに対し、九品中正は中央の役人が地方に行って面接を行う点にあった。これは、国家の成り立ちに影響している。漢が地方豪族の連合政権であるのに対し、魏は乱世を戦(実力)をもって治めたからで、地方豪族に気を使う必要がなくかつ、かつての敵であったため頼ることもできなかった。また、実力がないものを採用すれば国自体が亡ぶ戦乱期でもあった。この九品中正は、6世紀の聖徳太子(日本)の冠位十二階にも影響を与えている。
土地政策では、破った豪族の土地を戦乱で農地を失った農民に与える代わりに戦争に協力させた。これを屯田という。これは、土地を与える代わりに納税と兵役の義務を果たしてねという意味があった。これは、のちの北魏の均田制、府兵制につながる。

三国王朝の成立


再び3世紀の中国に戻る。208年、華北曹操は、圧倒的な軍事力を持って江南の孫権に進軍した。江南の孫権は、降伏派と抗戦派に分裂したが、四川省劉備と結んで抗戦するほうにまとまった。これが、赤壁の戦いである。レッドクリフの世界である。陸上戦に強い華北の軍隊と河川などの水上戦に強い江南の軍隊という特長があった。その結果、江南の孫権劉備連合軍が華北曹操軍を撃退した。
220年、曹操の子、曹丕は、漢皇帝が皇帝の地位を禅譲された。(曹操は皇帝にはなっていない)これに反発した劉備孫権はそれぞれ皇帝を名乗った。これをもって漢王朝は終わり、正式に三国時代になった。曹丕は、戦国七雄の一つ魏を国名としで建国した。一方、劉備は蜀を建国。孫権は、春秋五覇の一つで当時長江下流部を治めた呉を国名として建国した。

晋王朝の成立

260年、魏の将軍司馬炎が下克上を行い、魏から晋を建国した。晋は春秋五覇の一つで洛陽をおさめた当時の最有力国の名である。
280年、晋は呉王朝を滅ぼし中国大陸を統一し三国時代を終わらせた。

このころ日本は

 

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