2世紀のインドは、クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝の最盛期である。これを支えたのは、東の漢王朝と西のローマ帝国の存在である。
前回の復習、クシャーナ朝はなぜ衰退したのか
漢王朝は2世紀末に三国志の戦乱期に入る。一方、3世紀に入ると五賢帝の時代が終わり、軍人皇帝時代に入る。そのような中、隣国ペルシアではササン朝が成立。クシャーナ朝は、これに服従した。
北インドのクシャーナ朝は、カニシカ王の全盛期
西北インドのクシャーナ朝は、30年カニシカ王が即位。全盛期を迎える。クシャーナ朝はシルクロードを押さえていたので中国とヨーロッパの交易路として大いに栄えた。この頃、中国は漢王朝(後漢)の時代。多くの国が朝貢に訪れ、東アジア中の特産物が集まった。倭(日本)の奴国王が使いを送り金印をもらったのもこの時代である。
一方、ヨーロッパはローマ帝国の時代。五賢帝の全盛期である。そのため、2大帝国によってこれまで以上に東西交易が大いに増えた。
ガンダーラ美術
クシャーナ朝のころの美術がギリシアの影響を受けている。グプタ朝の時代と正反対の国際色豊かな仏教文化となった。ごれをガンダーラ美術という。この頃仏像は、写実的でギリシャ彫刻に似ているものも多い。この理由は2点で、1点目はクシャーナ朝はインド(アーリア)系ではなく、ペルシャ系の民族であったこと。2点目は、このころ東西交易が非常に盛んであったことが挙げられる。
日本に伝わった大乗仏教
クシャーナ朝のカニシカ王は、仏教を篤く保護した。この時期、第4回仏教結集を行っている。仏教結集は、キリスト教でいる公会議に近い。ちなみに第3回は紀元前3世紀マウリア朝のアショーカ王の頃である。
クシャーナ朝は、新たな仏教が誕生が誕生した。大乗仏教である。それまでの仏教は厳しい修行と出家で自身の救済を求める宗教であった。しかし、大乗仏教は菩薩を信仰することで救済されるというものである。
大乗仏教は、シルクロードを通じ魏晋南北朝時代の中国に伝わった。これが5世紀、朝鮮半島の百済を通じて日本に伝わった。現在でも日本は大乗仏教を信仰している人が多い。一方で、マウリア朝時代の仏教は上座部仏教といわれ、当時はスリランカで信仰されていた。これらはスリランカから東南アジアへ伝わった。ミャンマーやタイで信仰されている仏教は、大乗仏教である。
70年、カニシカ王がなくなる。これにより、クシャーナ朝の衰退が始まる。
南インドのサータヴァーハナ朝も全盛期を迎える。
インド北西部のクシャーナ朝が全盛期をむかえているころ、南インドのサータヴァーハナ朝も全盛期を迎えた。サータヴァーハナ朝はドラヴィダ人系の国で、都はデカン高原の中心部プラティシュターナである。
ローマ帝国との季節風貿易で大いに栄える
サータヴァーハナ朝の繁栄を支えたのは、ローマ帝国との季節風交易である。ローマ帝国は、プトレマイオス朝エジプトを征服。アラビア海(インド洋)とつながる紅海に港を持った。これにより、サータヴァーハナ朝は船で直接ローマ帝国と交易することが可能になった。2世紀に入ると五賢帝時代の全盛期を迎える。
アーリヤ文化(北インドの文化)を受け入れ
このころ、衰退したマウリヤ朝から、多くのアーリヤ人が南インドは移住した。これにより、仏教などが広まった。その結果、サータヴァーハナ庁ではサンスクリット語が公用語となった。この頃から多くの石窟寺院が作られた。アジャンター石窟寺院はその一例である。
このころの東の帝国は
このころの西の帝国は