1780年代のイギリス アメリカ独立戦争に敗戦
日本は江戸時代。松平定信の寛政の改革の時代である。この頃群馬の浅間山で大噴火。天明の大飢饉が発生した。
このころ、アメリカ独立戦争が終結。イギリスは、アメリカ13州の独立を承認し、カナダ以外の新大陸の拠点を放棄した。政治面では、トーリ党の小ピットが登場した。また、産業革命も進展、製鉄技術が向上。これにともない、石炭の需要が飛躍的に伸びた。
前回の復習 フランス革命
先週は、ナポレオン戦争とフランス革命を見ていきました。18世紀のイギリスを見ていく過程で注目すべきは2点あります。敵味方の関係と、新大陸(アメリカ)とインドの状況の確認です。
これをフランス革命・ナポレオン戦争に当てはめると、イギリスはフランス以外のすべての国を味方にして、新興勢力ナポレオンと戦った戦いである。
新大陸アメリカでは、米英戦争が行われた。講和条約上はイギリスの勝利となったが、領土の移動はなかった。
インド・アジア方面では、イギリスがオランダ植民地を奪っていた。その一環で行われたのが長崎のフェートン号事件である。また、この時期に清王朝に対しても使節を2回送っている。結果、ウィーン会議でオランダからケープ植民地(南アフリカ)とスリランカ(インド)を獲得した。
アメリカ独立戦争に敗戦
アメリカ独立戦争の戦況
80年、イギリスはアメリカ独立戦争の真っただ中にあった。アメリカ植民地政府には、七年戦争の復讐に燃えるブルボン朝フランス(ルイ16世)がついた。このほかにも、ブルボン朝スペイン、オランダがアメリカ植民地政府を支援した。ロシアのエカチェリーナ2世は武装中立同盟を結成し、イギリスをけん制した。この武装中立同盟には七年戦争でイギリスが支援したプロイセンも参加した。
七年戦争には、フランス革命で活躍するラ=ファイエットや、ポーランド分割で活躍するコシューシコが参戦した。
ヨークタウンの戦いに敗戦
81年 ヨークタウンの戦いでイギリス軍はアメリカ・フランス連合軍に大敗した。これにより、イギリスの敗戦が決まった。ちなみに、ヨークタウンは、アメリカ南部のヴァージニア州の港町である。
ホイッグ党政権の成立
ヨークタウンの戦いの敗戦により、トーリ党ノース首相は辞任。第二次ホイッグ党ロッキンガム公爵首相が誕生した。ロッキンガム公爵首相は就任後、アメリカ独立を承認した。しかし、その後亡くなった。83年ホイッグ党ポートランド首相が誕生。
アメリカ独立戦争の講和条約(パリ条約)
ホイッグ党ポートランド首相は、パリ条約を締結した。パリ条約では、アメリカ13植民地の独立を承認。七年戦争で獲得したルイジアナ東部をアメリカに割譲した。また、ブルボン朝フランスには、西インド諸島(カリブ海)のトバコと西アフリカのセネガル(パリ・ダカールラリーのダカールで有名)を割譲。ブルボン朝スペインにはフロリダ半島を割譲した。しかし、ブルボン朝スペインが要求したジブラルタル海峡は死守した。
そのころ、インドでは(第2次マイソール戦争)
このころ、インドでは、第2次マイソール戦争が行われていた。南インドのマイソール王国は、フランスの支援を受けて、イギリス東インド会社の拠点ボンベイを攻撃した。しかし、パリ条約で、フランスはイギリスと講和。フランスは撤兵した。これにより、マイソール王国は敗戦した。
若き首相、小ピットの誕生
パリ条約を締結したホイッグ党ポートランド首相は、インド政策をめぐり国王ジョージ3世と対立。首相の座を追われた。ジョージ3世が次に首相に指名したのは、トーリ党の小ピット首相である。このとき、小ピット首相は24歳であった。
小ピットの竹中平蔵、アダム=スミス
小ピットの経済ブレインについたのが、アダム=スミスである。アダム=スミスは、近代経済学の父と呼ばれ、76年に『諸国民の富』を発表した新進気鋭の経済学者である。
これまでのイギリスの経済政策の特徴は、保護貿易政策をとり、いかに貿易相手国から銀を獲得するかが重要であった。そのため、輸出の促進を行うとともに国内産業の保護にも努めた。
一方、アダム=スミスの考える政策は、自由貿易政策である。銀ではなく安い外国製品を輸入することで、国が豊かになるという考え方である。
イギリス東インド会社の特権削減
当時、インドは、イギリス東インド会社が独占的に貿易を行っていた。80年代に入ると、イギリス東インド会社の汚職問題が発覚した。そのため、前首相ホイッグ党ポートランド首相は、イギリス東インド会社の改革を打ち出した。しかし、国王ジョージ3世の反対にあい、とん挫した。
小ピット首相は、ポートランド首相の改革案を修正、国王が選ぶ委員会がイギリス東インド会社を経営することとした。
英仏通商条約
小ピット首相は、フランスのルイ16世と英仏通商条約を締結した。これにより、イギリスはフランスの安い農産物を受け入れる代わりに、フランスに工業品を輸出することが可能になった。
この条約により、フランスで、多くとの都市労働者が失業した。ルイ16世はパリの税収が下がり困窮、フランス革命の原因となった税制改革に手を付けざるを得なくなった。また、失業と農産物価格の高騰でパリ市民の生活は困窮。バスティーユ監獄の襲撃につながる。
一方で、イギリスの製鉄技術をいち早く導入。大砲技術が飛躍的に向上。大砲の名手ナポレオンの登場につながった。ナポレオンは、この自由貿易がパリ市民の生活を苦しめていたことを理解。大陸封鎖令につながる。
一方、イギリスは安いフランス産農産物が入り、都市の生活は著しく向上した。一方で、地方の領主は農産物価格の下落で生活は困窮した。このことが後に、トーリ党は、自由貿易推進派と自由貿易反対派に分裂の要因となった。
産業革命の進展
18世紀のイギリスは、産業革命が進展した時期でもある。産業革命とはそれまで手で行われてい綿織物を機械化する過程である。その分野は大きく3つに分けられる。綿花から綿糸を作る紡績業。綿糸から綿布を作る織布業。そしてこれらを動かす動力である。
カートライトの力織機
1730年代のジョン=ケイの飛び杼(シャトル)によって、綿糸需要が大きく高まり、紡績業はかなり進展した。しかし、織布業は1830年代以降大きな進展はなかった。
87年、カート=ライトは、蒸気機関を利用した織機を発明した。これにより、生産量は3.5倍になった。
ヘンリ=コートの反射炉
1730年代、ダービー父子が石炭による製鉄に成功した。しかし、まだこのころは木炭で作られた鉄の方が良質の鉄が作られた。しかし、80年代、ヘンリ=コートが石炭による新たな製鉄技術を発明。これにより、石炭による製鉄が主流になった。
この発明により、石炭の需要は大きく増え、炭鉱労働者が急増した。19世紀に入ると炭鉱労働者の環境改善が叫ばれるようになる。
また、これにより、大砲の技術も飛躍的に向上した。これがイギリス海軍を飛躍的に強くさせた。日本でも、1810年代のフェートン号事件以後、多くの反射炉が作られた。これにより、日本は列強の植民地化を免れることができた。
18世紀の日本は
18世紀のヨーロッパは
18世紀のインドは