日本は江戸時代中期。享保の改革で有名な徳川吉宗が将軍になったころ。時代劇好きの人では暴れん坊将軍でおなじみの将軍である。
1810年代のヨーロッパは、スペイン継承戦争の真っ只中にあった。フランスの太陽王ルイ16世が亡くなるとスペイン継承戦争は終結した。イギリスでは、スチュアート朝が終わり、ハノーヴァー朝が成立した。スペイン継承戦争でフランスに勝利したイギリスは、スペインからアシエント権(アメリカの黒人奴隷売買権)を獲得した。これが、大英帝国繁栄の礎となった。
前回の復習 18世紀のイギリスとは
18世紀は、フランス=ブルボン朝の衰退の歴史といえる。フランスの18世紀は太陽王ルイ14世の時代で始まり、フランス革命で終結する。18世紀を見ていくうえで重要なことは、複雑な外交関係である。フランスとイギリスにそれぞれどんな国が付いたかを見ていくことが重要である。40年代のオーストリア継承戦争では、イギリスはオーストリアを、フランスはプロイセンをそれぞれ支援していた。
18世紀のイギリスは、大英帝国の礎を築く時代でもあった。このころ、フランスとイギリスは新大陸アメリカとインドで植民地戦争を展開していた。英仏植民地は百年戦争といわれる。これらの戦争はつねにヨーロッパの戦争と連動していた。40年代のオーストリア継承戦争の場合、アメリカではジェンキンスの耳戦争やジョージ王戦争、インドでは第1次カーナティック戦争が展開していた。
18世紀のイギリスは、産業革命の年でもあった。18世紀の機関の間に綿工業が飛躍的に拡大した。その要因は2つある。1つ目は、17世紀のインド産綿布(キャラコ)の大流行である。17世紀初頭のアナボイア事件でイギリスは香辛料貿易から撤退。代わりに眼をつけたのがインド産綿布(キャラコ)であった。キャラコブームは、インドムガル帝国の繁栄を支えた。2つ目は、重商主義政策である。イギリス政府はこの状況を悲観していた。当時の経済学の主流は、輸出を増やし、輸入を減らすことで海外から大量の銀を確保しようという考え方である。そのため、イギリス政府は、18世紀初頭、インド産綿布(キャラコ)の規制を行った。これにより、綿布の国産化がいそがれた。
ハノーヴァー朝の成立
スペイン継承戦争
話を、10年代に戻しましょう。10年代は、スペイン継承戦争の真っただ中にあった。フランス=ブルボン家とオーストリア=ハプスブルク家がスペイン王室の座をめぐり戦争行った。
当時、スペインは新大陸アメリカに広大な領土を持っていた。スペイン王室はアメリカでの貿易関税で利益を上げていた。これがアシエント権(アメリカでの黒人奴隷販売権)であった。
イギリスは、フランスとこのアシエント権をめぐり対立していた。そのため、オーストリアを支援した。このほかに、オランダ、プロイセン公国がオーストリアを支援した。
この戦争の最中、アメリカでは、イギリスとフランスがアン女王戦争を展開していた。東欧では、スウェーデンとロシアが北方戦争を展開していた。
スチュアート朝最後の女王、アン女王
このころ、スチュアート朝最後の女王、アン女王が亡くなった。スチュアート朝は、もともとスコットランド王室である。カトリック教を強制しようとした王と議会がたびたび衝突。イギリス革命によって、イギリス王室の発言力がなくなった。名誉革命(イギリス革命)後は、女王が続いていた。
アン女王は、デンマーク王室から婿を迎え、18人もの子供を授かった。しかし、全員、死産か幼いうちに亡くなってしまった。そのため、スチュアート家はこれで断絶した。
ハノーヴァー朝の成立とジョージ1世の即位
ウィリアム3世は、イングランドのカトリック化を防止するためアン女王に後継者がいない場合の後継者をあらかじめ指名していた。それが、イギリス王室の遠縁にあたる神聖ローマ帝国(ドイツ)ハノーヴァー選帝侯ジョージ1世である。ジョージ1世は、ウィリアム3世の遺言に従いイギリス国王に即位した。これにより、成立したのがハノーヴァー朝である。現在のウィンザー朝である。(第一次世界大戦期にドイツ語読みから英語読みに変更した。)この王朝は2020年の現在でも続いている。
ジョージ1世はイギリス王になることは、想定外のことであった。イギリスのことは全く分からず、英語すら話すことができなかった。そのため、政治は内閣に任せていた。これにより成立したのが責任内閣制である。ただ、当時首相という役割はなく大蔵卿などの役職者の役割の人が合議で進めていった。当時、内閣を取り仕切っていたのはホイッグ党であった。その結果、王朝交代はスペイン継承戦争に何ら影響を与えることはなかった。
ハノーヴァーは、神聖ローマ帝国の北西部に位置し、ウィリアム3世が同君連合を結んでいたオランダのすぐ南に位置していた。これにより、イギリス(大ブリテン王国)は、イングランド王兼神聖ローマ帝国の一諸侯を兼務する形になっていた。ただ、この時期の神聖ローマ帝国の諸侯は、事実上の国王であった。すなわち、この時代、イギリスは神聖ローマ帝国内に事実上領土を持っていたことになる。
ジャコバイトの反乱
フランスは、イギリスの王朝交代をチャンスととらえた。フランス亡命中のジョージ2世の息子をイギリスへ送り込もうとした。これを支援したのが野党トーリ党である。しかし、この反乱は失敗に終わった。これによりトーリ党の大部分が失脚。ホイッグ党の長期政権が成立した。
フランスでは太陽王ルイ16世が亡くなる
このころ、スペイン継承戦争を指揮していたフランス=ブルボン家のルイ14世も亡くなった。ルイ14世は周辺諸国へたびたび侵攻し、フランスの領土を拡大した。一方で、海外植民地の拡大にもいそしんだ。新大陸アメリカでは、アメリカ中央部に進出。ルイジアナとなずけた。インドでも、ボンディシェリやシャンデルナゴルに商業拠点を築いた。フランス王室の絶頂期であった。その象徴がヴェルサイユ宮殿である。ここからフランス革命までフランスの政治はパリではなくパリ郊外のヴェルサイユで進められた。
スペイン継承戦争終結、ユトレヒト講和条約
フランス=ブルボン家の太陽王ルイ14世が亡くなると、スペイン継承戦争は、オーストリア・イギリス側の勝利で終わった。
スペイン王室とヨーロッパについて
スペイン王は、ルイ16世の孫フェリペ5世が継承権をとる。しかし、フランスとの同君連合を認めない条件が付けれた。すなわち、フェリペ5世はフランス国王の継承権を放棄することが条件となった。
また、フランス=ブルボン家は、継承権獲得の見返り戦勝国にスペイン=ブルボン家の領土を分配した。
イギリスへは、地中海のジブラルタとミノルカ島を、オランダには、スペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)の一部を、オーストリア側についた北イタリアの諸侯サヴォイア公に、南イタリアの両シチリア王国を、それぞれ割譲した。
オーストリア=ハプスブルク家には、スペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)とイタリアの残りの部分を与えた。
ジブラルタとミノルカ島
スペイン継承戦争でイギリスは、ジブラルタとミノルカ島を獲得した。ジブラルタは大西洋と地中海を結ぶ狭い海峡で、ミノルカ島もその近くにあった。この2つの島を押さえることで、大英帝国の地中海、北アフリカへの進出が始まった。その後、アメリカ独立戦争期にミノルカ島はスペインに返還されたが、ジブラルタルは2020年現在でもイギリス領のままである。
新大陸アメリカについて
スペイン継承戦争の2番目の争点は、スペイン王室がもつ新大陸アメリカの黒人奴隷売買権(アシエント権)である。これはイギリスに与えられた。
イギリスは、フランスからニューファンドランドなどカナダの東岸を獲得する。
スペイン継承戦争後のオーストリア
スペイン=ブルボン家は、スペイン領ネーデルランド(ベルギー)とイタリアをオーストリア=ハプスブルク家に割譲した。オーストリア=ハプスブルク家は、このあと東欧編試行していく。アジア系騎馬民族国家のハンガリーや西スラヴ人国家のチェコやポーランドなどである。このようにして中欧オーストリア=ハプスブルク家は多民族国家へ変貌していく。
オーストリア=ハプスブルク家のカール6世も、後継者問題を抱えていた。そのため、全領土を自分の娘マリア=テレジアに相続させることを決めた。これがオーストリア継承戦争のきっかけになる。
イタリアの前身 サルディーニャ王国とドイツの前身プロイセン王国の成立
ドイツ北東部農業国、プロイセン公国は、スペイン継承戦争の支援の見返りに王国へ昇格した。当時プロイセンは、神聖ローマ帝国内で最大の軍事力と経済力を誇っていた。この力がオーストリア継承戦争の勝利に導いた。しかし、40年代のオーストリア継承戦争ではこの牙がオーストリアに向くことになる。
北イタリアのサヴォイア公は、スペイン継承戦争で南イタリアのシチリア王国(シチリア島)を獲得。シチリア王となった。その後、オーストリア=ハプスブルク家カール6世とシチリア王国とサルディーニャ王国(スペイン継承戦争でスペインから獲得)を交換。サヴォイア公はサルディーニャ王国を建国した。この国が19世紀イタリアを統一することになる。
ロシア、ピョートル大帝が北方戦争でスウェーデンに勝利
スペイン継承戦争が終結したころ、東欧で行われていた北方戦争も終結した。ロシアがスウェーデンに勝利したのである。当時、東欧の強国はロシアではなく、スウェーデンであった。この戦争で、東欧の力関係がかわり、ロシアの発言力が強くなっていく。
当時のロシアの皇帝は、ピョートル大帝である。ピョートル大帝は、都をモスクワからバルト海沿岸のペテルブルクを建設した。
アシエント権と南海泡沫事件
イギリスは、スペイン継承戦争のため大量に国債を発行した。そのため、スペイン継承戦争で獲得したアシエント権を使って資金を得る方法を考え付いた。第二のイギリス東インド会社の設立である。これが「南海会社」である。イギリス政府は「南海会社」に新大陸植民地の貿易独占権を付与した。これには当然、アシエント権(黒人奴隷売買権)も含まれていた。
金融市場が確立したロンドンで、「南海会社」の株価は急騰した。これにともない他の株式も売れた。
この頃の日本は
フランスは
北方戦争に勝利したロシアは