10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

16世紀前半のイギリス ヘンリ8世の離婚問題からイギリス国教会制度が成立。

 16世紀前半、日本は戦国時代。ただ、この時代は織田信長がまだ登場していないころで各地方で小競り合いが続いていた。16世紀の半ばにポルトガル人やスペイン人が来日。鉄砲やキリスト教カトリック)が伝来。

 このころ、ヨーロッパは大航海時代の真っただ中にあった。スペインは新大陸(アメリカ)で大量の銀を獲得。ポルトガルはアジアの香辛料で富を蓄えた。

 

 

16世紀のヨーロッパ情勢

 16世紀は、日本では戦国時代である。このころ、ヨーロッパは大航海時代を迎えていた。この時期の強国はスペインとポルトガルである。とくにスペイン=ハプスブルク家のカルロス1世は、のちに神聖ローマ帝国皇帝(カール5世)を兼任。ヨーロッパの大半を治めるようになる。

 16世紀は宗教改革の時代でもある。神聖ローマ帝国(ドイツ)ではルターが登場。ルター派プロテスタント)とカトリックの対立が始まった。また、スイスではカルヴァンが登場。フランスでユグノー戦争を引き起こす。

ヘンリ8世、イングランドの国教会を成立

 ヘンリ8世は、ヘンリ7世と真逆の政策をとった。海軍を増強し、ヨーロッパの戦争に積極的に参加した。また、このころウェストミンスター宮殿を焼失。豪華絢爛なホワイトホール宮殿が建設された。これにより、ウェストミンスター宮殿は再建後は宮殿として使われることは亡くなり、国会議事堂になった。一方、ホワイトホールは官庁街をあらわる言葉になった。海軍の増強と宮殿の建設で、王室財政はひっ迫した。
 ヘンリ8世は子宝に恵まれなかった。ヘンリ8世の妻は、当時絶頂期のスペイン王室から迎えられた。これは父ヘンリ7世の婚姻による平和外交政策の一環である。その間に生まれた子はメアリという女の子であった。そのため、ヘンリ8世は、男児が生まれる新たな后を求めた。ヘンリ8世は、敬虔なカトリック教徒であり、一夫一妻の原則があり中国や日本のように側室という制度がなかった。そのため、ヘンリ8世は、ローマ教皇スペイン王室の娘との結婚の無効(いわゆる離婚)の許可を求めた。しかし、ローマ教皇はこれを認めなかった。当然である。この離婚を認めることは当時絶頂期にあるスペイン王室に喧嘩をうることになるからである。
 当時、ヘンリ8世は、イングランド議会に諮り離婚を成立させた。そして、イギリス国教会を成立させた。この新たな后との間に生まれたのがエリザベス1世である。このあとヘンリ8世の2人の娘、メアリとエリザベス1世との異母姉妹の間で混乱が生じる。イギリス国教会の成立を支えたのは、宗教改革があった。神聖ローマ帝国(ドイツ)ではルターやカルヴァンが台頭していた時代である。
 ただ、ヘンリ8世はあくまでカトリック教徒である。そのため、祭祀はカトリックの伝統に基づいて行われた。このイングランド国教会政策は思わぬ副産物を生んだ。教会財産の没収である。ヘンリ8世は、修道院を解散させ、教会財産を王室の財源とした。そのため、破綻した王室財政は再建された。
 この時代、新興地主層が台頭してきた。彼らは「ジェントリー」と呼ばれた。ジェントリーは、イングランド王室が獲得した貴族や教会の土地を買収して大規模農業を展開した。その中心は牧羊業であった。大規模な牧羊業はこれまでの農業と異なり、人を必要としなかった。このため、農地で大規模なリストラが行われ、失業者は都市へ流れた。(1次囲い込み運動)
 ただ、スペインやローマ教会を敵に回したことで外交関係は悪化した。カトリック教徒のスコットランドとフランス連合軍と戦った。一方で、強力な軍事力を利用して、ウェールズの併合を行った。一方で、イングランド支配下にあったアイルランドは王国に昇格。ヘンリ8世がアイルランド王を兼任した。

幼少なエドワード6世イギリス国教会プロテスタント

 ヘンリ8世が亡くなると、幼少のエドワード6世が国王に即位した。このころ、イングランド国教会をめぐる対立が生じた。カトリックプロテスタントカルヴァン派)の対立である。この頃から、イングランドプロテスタント化が始まった。しかし、エドワード6世は病弱のため即位から6年で亡くなった。

母の恨み、ブラッディ・メアリー

 エドワード6世の後を継いだのは、メアリである。ヘンリ8世に捨てられたスペイン王室のキャサリンの娘である。メアリは、ローマ教皇に謝罪。直ちにイングランド国教会関連の法律を次々廃止した。修道院復活のため、ジェントリーから土地を没収して返還さえる法案を提出した。しかし、この頃のジェントリーはすでにイギリス議会の多数派を占めていた。そのため、これは実現しなかった。この事件によって、ジェントリーとカトリックの関係は悪化した。
 メアリ1世が即位すると、カトリック教徒は大いに喜んだ。一方で、プロテスタントは、悲しむどころか命の危険を感じるようになった。イングランドにいるプロテスタントはおもにカルヴァン派である。イングランドカルヴァン派ピューリタンと呼ばれた。ピューリタンの多くは海外へ亡命した。また、国内に残ったピューリタンの中には処刑されるものも多くいた。そのため、メアリ1世は、ブラッディ・メアリ(血のメアリ)と呼ばれた。
 また、メアリ1世はスペインとの同盟を強化していた。このころ、スペインは、フェリペ2世の時代に代わっていた。メアリ1世は、スペイン国王フィリペ2世と結婚した。ハプスブルク家は、スペイン=ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家に分裂していた。強国スペインには、イギリスと同盟したい理由があった。それはフランスとの戦争である。婚姻が成立すると、スペイン・イングランド連合軍はフランスと戦争を開始した。しかし、スペイン・イングランド連合軍は敗戦。イングランドはカレーを失った。
 メアリ1世もまた、子宝に恵まれなかった。子どもを残すことなく、即位から5年、病に倒れこの世を去った。

この頃の日本

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 このころのフランスは

 

sekaishiotaku.hatenablog.com