10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

18世紀のロシア ロマノフ朝 北方戦争からポーランド分割まで

  18世紀(1701年~1800年)、日本は江戸時代後期。生類憐みの令で有名な徳川綱吉から、松平定信寛政の改革の時代である。

 18世紀初頭のロシアは、まだ小国であった。しかし、北方戦争に勝利し次第に強国への道を進み始める。

 

ピョートル1世、北方戦争に勝利して強国の仲間入り

 00年 北方戦争(VSスウェーデン)が始まる。

  北欧のスウェーデンのカール12世バルト海制海権をめぐり北方戦争を始める。当時のヨーロッパの強国、ブルボン朝フランスとハプスブルグ家神聖ローマ帝国は、スペイン継承戦争が行われていたためほかの国の干渉を受けなかった。

  当時のスウェーデンはドイツ30年戦争(17世紀前半)に勝利し、ヨーロッパ大陸にも領土を獲得。バルト海制海権を持っていた。

  バルト海は、ヨーロッパ東北部の海域。北欧のスカンジナビア半島とロシアの間の海。北海交易圏の一部になっている。  

 07年 極東、カムチャツカ半島、領有を宣言

 ピョートル1世は、1689年清王朝ネルチンスク条約を締結すると、極東にたびたび送った。01年、極東の探検隊が日本人漂流者を救出。漂流者をサンクトペテルブルクに連行。日本語学校を建設した。
 06年、千島列島の北、カムチャツカ半島の領有を宣言。
 11年には、千島列島の探検を行った。

 

 10年 オスマン帝国スウェーデン側で参戦

 北方戦争は、序盤スウェーデンの圧勝であった。しかし、ピョートル1世の近代化政策のおかげでロシア帝国は反撃に入る。
 09年、スウェーデンは敗戦。カール12世はオスマン帝国へ亡命した。
 スウェーデン国王カール12世は、オスマン帝国の支援のもと北方戦争が再開された。

 12年 北海沿岸、ペテルブルグ遷都

 ペテルブルグは、北海沿岸の港町。ピョートル1世は03年からペテルブルグの開発を始めた。

 13年 スペイン継承戦争が終了

 13年スペイン継承戦争が終了すると、ヨーロッパの傭兵たちは北方戦争に参加した。

 21年 北方戦争スウェーデンに勝利(ニスタット条約)

 ロシアは、エストニアなどバルト海沿岸地域の領土を獲得。
 ロシアは、スウェーデンからバルト海制海権を奪った。

 25年 ピョートル1世、没

 28年 アラスカ発見

 ピョートル1世は、晩年極東の探検を命じた。探検隊長はベーリングである。
 25年、ベーリングは極東探検を開始
 28年、ロシアとアラスカの間にあるベーリング海峡を発見した。

30年 アンナ

 ピョートル1世の姪。ロシア貴族は、ピョートル1世が亡くなると、強い皇帝権を嫌いピョートル1世の兄イヴァン5世の家系から皇帝を選出した。

 アンナ女帝も、有力貴族の支援の下皇帝に即位した。しかし、即位して間もなく有力貴族に反発する一般貴族が反発。この時期から皇帝権が強化される。しかし、あんな上程自身は政治に興味がなく、貴族中心の政治が行われた。

 33年 ポーランド継承戦争

 ポーランドの選挙で、フランス国王ルイ14世が推す国王が選出。これに対し、神聖ローマ帝国オーストリア=ハプスブルグ家)皇帝カール6世が反発。ポーランド継承戦争が始まった。

 ロシアは、北方戦争以来の友好国神聖ローマ帝国オーストリア=ハプスブルグ家)側で参戦。

 35年、神聖ローマ帝国側が妥協し、新国王を承認。ポーランド継承戦争は終わった。

 35年 オスマン帝国と戦争

 ロシアは、ペルシア人有力者と同盟を結び、オスマン帝国へ侵攻。
 神聖ローマ帝国オーストリア=ハプスブルグ家)皇帝カール6世が仲介。領土を少し獲得して終わった。


41年 エリザヴェータ

 ピョートル大帝の娘。

 40年、アンナ女帝なくなると、幼少のイヴァン6世が即位した。翌41年、エリザヴェータはクーデターを起こし、女帝についた。

 女帝のため、実際の政治は貴族が取り仕切った。

 40年 オーストリア継承戦争が始まるが、ロシアは、不参加

 40年、神聖ローマ帝国でマリア=テレジアが即位すると、プロイセンなど周辺国が反発。オーストリア継承戦争が始まった。

 ロシアは、当初この戦争に不参加であった。

 43年 フィンランド占領

 48年 ロシア、神聖ローマ帝国側で参戦もすぐに終戦

 ロシアは、北方戦争以来の友好国ハプスブルク家(マリア=テレジア)側で参戦。しかし、参戦後まもなく終戦。何も見返りは得られなかった。

 56年 七年戦争開戦

 オーストリア継承戦争に敗北したマリア=テレジアは永遠の宿敵ブルボン朝フランスと同盟(外交革命)。ロシア・フランス・オーストリア連合軍で、プロイセン(のちのドイツ)にリベンジマッチを開く。これが七年戦争である。

62年 エカチェリーナ2世

 エカチェリーナ2世のクーデターと七年戦争終戦

 61年、オーストリア・フランス・ロシア連合軍はベルリン陥落寸前まで進んでいた。

 しかし、ここで大きな問題が生じた。ロシアは、この勝ち戦の最中、突如撤兵した。
 ロシア女帝、エリザヴェータが急死。息子のピョートル3世が即位した。ピョートル3世は、皇太子時代よりエリザヴェータ女帝と対立。プロイセン皇帝フリードリヒ2世を崇拝していたため、プロイセンと同盟を結んだ。

 勝ち戦を不意にした。ロシア軍は皇帝に反発。翌62年クーデターを起こし、ピョートル3世を廃位。ピョートル3世の后、エカチェリーナ2世を即位させた。

 この混乱で、プロイセンは息を吹き返し、プロイセンが勝利。63年パリ条約を締結した。

 68年 第1次ロシア=トルコ戦争

 72年 第1次ポーランド分割

 ロシア、プロイセンオーストリアは、ポーランドから領土を奪った。

 73年 プガチョフの農民反乱

  カスピ海沿岸の農民を中心に起こった農民反乱。

  当時、カスピ海周辺の農民は、オスマン帝国との戦争で疲弊していた。
  そのような中、プガチョフは「私がピョートル3世である」という嘘をついて農民をあつめ、反乱軍を結成した。

  この反乱の鎮圧に2年を要した。エカチェリーナ2世はこの事件をうけて、皇帝権を強化する方向にシフトした。

 74年 第1次ロシア=トルコ戦争に勝利

 83年 カフカス地方のジャージア領有

  ロシアは、カフカス地方のジョージア黒海クリミア半島の領有を行った。

 87年 第2次ロシア=トルコ戦争

  2度にわたるオスマン帝国との戦争により、黒海周辺への影響力を高めるとともにバルカン半島進出への足掛かりできた。一方、オスマン帝国はこの戦争による敗退により、衰退方向へ向かっていた。

 89年 フランス革命勃発

 92年 ラスクマン、日本(江戸幕府)に派遣

  前年91年、ロシアは、日本人漂流者、大黒屋光太夫を救出。ペテルブルグへ連行。

  大黒屋光太夫は、エカチェリーナ2世に謁見した。

  翌92年、エカチェリーナ2世は、ラスクマンに命じ、大黒屋光太夫を日本へ送り届けるとともに日本への開国を要求した。ラスクマンは、北海道東部の根室に来航した。

  当時、江戸幕府松平定信寛政の改革を行っていた時代。ロシアの開国要求は拒絶された。もし、この来航が数年早く田沼意次の時代であったら日本の開国はもう少し早まっていたかもしれない。

 93年 第一次対仏大同盟に参加

   フランス革命で、ルイ16世が処刑。
   イギリスのピット首相が対仏大同盟を提唱
   ロシアはこれに参加した。

 93年 第2次ポーランド分割

   ロシアとプロイセンは、さらにポーランドから領土を奪った。
   このとき、オーストリアフランス革命の対応で参加できなかった。

 95年 第3次ポーランド分割

   ロシア、プロイセンオーストリアはさらにポーランドから領土を奪った。
   これにより、ポーランドは消滅した。
   しかし、1806年、ナポレオン戦争時にワルシャワ大公国として復活する。

次回予告

「17世紀のロシア ロマノフ朝 シベリアを東へ」

このころ日本は

 

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 このころヨーロッパは

 

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 ロシアが狙う中東の情勢は

 

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