10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1810年代のイギリス ナポレオン戦争に勝利し、イギリスは清王朝へ向かう

 1810年代、日本は江戸時代後期。浮世絵で有名な化政文化の絶頂期であった。

 このころ、ヨーロッパでは、ナポレオン戦争終結ウィーン体制がが成立した。

 

 前回までの復習 カニング外交とパーマストン外交

 1820年代の外交は、スペイン立憲革命でオーストリアと対立。四国同盟は10年もたたずに有名無実化した。ここからイギリスの「光栄ある孤立」が始まる。ただ、20年代の交通革命でイギリスは軍艦を持つことができ、軍事力を持って「光栄ある孤立」を維持することができた。

 1820年代のイギリス政治はトーリ党(のちの保守党)を中心に政治が行われていた。しかし、外交政策でトーリ党は分裂し始めた。カニング・パーマストンらの自由貿易派と、それ以外の保護貿易派である。この分裂により、1830年代のホイッグ党グレイ政権(第一回選挙法改正)につながる。

 今回から3回にわたって、ナポレオン戦争フランス革命をイギリス視点で見ていきます。

 

ナポレオン戦争終結

トーリ党ジェンキンソン首相の長期政権

 カニング外務大臣陸軍大臣が対立してポートランド首相が総辞職した。これにより、パーシヴァル首相が成立した。このとき、ナポレオン戦争大臣となったのがパーマストンである。しかし、12年暗殺によってなくなった。そのあとを引き継いだのがトーリ党ジェンキンソン首相である。ジェンキンソン首相はナポレオン戦争の勝利で国民の支持を集め、長期政権を引くことができた。

12年 米英戦争(第二次アメリカ独立戦争

 アメリカは、80年代に独立したばかりの若い国である。このころ、アメリカは2つの問題でイギリスを嫌っていた。
 一つは、フランス(ナポレオン)から買収したルイジアナアメリカ中央部)の開発妨害である。カナダにいたイギリス軍は、ルイジアナにいるネイティブアメリカン(インディアン)に部系を提供して、アメリカの西部開拓民の進出を妨害した。
 もう一つは、イギリス軍によるフランスへの経済封鎖である。これによりフランスへの輸出量が激減した。

 アメリカは、この時、好戦派と中立派で対立していた。この時の大統領は中立派のジェファソンであった。しかし、08年の大統領絵選挙で交戦派のマディソン大統領が誕生した。

 12年、アメリカはイギリスに宣戦布告した、アメリカは、カナダにいるイギリス軍を攻撃するとともに、ルイジアナのインディアンを攻撃した。しかし、武力の差は歴然としていた。カナダのイギリス軍はすぐにワシントンを占領した。

12年、シモン=ボリバルらが中南米独立運動

 ナポレオン戦争の混乱は、中南米まで波及していた。当時、中南米を支配していたのはブルボン朝スペインである。しかし、スペインは、ナポレオン皇帝の支配下にあった。当時のスペイン国王はナポレオンの兄ジョセフである。

 中南米では、移住した白人地主(クリオーリョ)らが独立運動を開始した。中心となったのは、サン=マルティンとシモン=ボリバルである。

13年、米英戦争で綿花価格が高騰し、インド貿易自由化

 このころ、産業革命の進展で綿工業急速に進んだ。その原料は綿花である。その供給地はアメリカであった。しかし、米英戦争アメリカ産綿花の流入がストップ。綿花価格が高騰した。アメリカ産綿花の代替品として、インド産綿花の需要が高まった。

 当時、インド貿易は東インド会社が独占していた。そのため、イギリス商人はインド貿易の自由化を求めていた。イギリス政府は東インド会社のインド貿易独占権を廃止した。

12年、ナポレオン、ロシア遠征失敗

 米英戦争を開始した12年、ナポレオンはロシア遠征を開始した。しかし、年が変わって13年、ナポレオン軍は、ロシアの冬将軍に敗れ壊滅した。これを受けて、ジェンキンソン首相は第四回対仏大同盟を結成。14年、イギリスなどの連合軍はフランスへ入城。ナポレオンを拿捕し、エルバ島島流しにした。

 ワシントンを占領されたアメリカもナポレオン拿捕を受け、イギリスと講和をした。

15年 ウィーン議定書

 14年、ナポレオンが拿捕されると戦後秩序について会議が行われた。会議を指導したのはオーストリアメッテルニヒ首相である。イギリスはこの会議で、オランダから、スリランカケープタウンを獲得した。

19世紀の国連、神聖同盟

 ロシア皇帝アレキサンドル1世が提唱した事実上の国連。しかし、ロシアはロシア正教会のトップでもある。そのため、イギリス国教会の代表であるイギリスはこれに加盟しなかった。同じ理由で、カトリック教会のローマ教皇(当時イタリアは分裂状態)、イスラム教のオスマン帝国もこれに参加しなかった。
 実際、19世紀になるとロシアVsイギリス、ロシアVSオスマン帝国の戦争が何度も起こる。

19世紀初頭の大国とは、四国同盟

 イギリスのカスルレー外相は、ロシアへの抵抗手段として四国同盟を締結した。参加国は、イギリス、ロシアに、オーストリアプロイセン(のちのドイツ)を加えた四か国とした。
 しかし、この同盟は、20年代のスペイン立憲革命でオーストリアとイギリスが対立し、消滅した。以後、イギリスは「光栄ある孤立」の道を進む。

18年 フランスが加盟して五国同盟

 フランスは、ウィーン会議ブルボン朝が復活した。ブルボン朝フランス革命禅の政治体制を踏襲した。18年、戦勝国への賠償金支払いが完了。国際社会に復活した。

ウィーン会議後のイギリスのアフリカ政策

 ウィーン会議ケープタウン南アフリカ)を獲得した。1880年代には、フランスから奪ったエジプトを獲得。イギリスはこの2つの拠点を中心にアフリカの植民地化を進める。

ウィーン会議後のイギリス、清王朝

 ウィーン会議で、イギリスはオランダに代わってインド洋交易の主導権を握ることになった。イギリスはアマースト清王朝へ派遣した。

 当時の清王朝は、乾隆帝がなくなり衰退期に入り始めていた。南部では王朝末期の恒例行事、宗教反乱(白蓮教徒の乱)が発生。香港(広州)では、インド産アヘンが蔓延。貿易赤字で銀が流出していた。

 当時の清王朝は、イギリスを大いに嫌っていた。その理由はイギリス商人がアヘンを広州へ販売していたからである。清王朝は、アマーストに他の国と同様に三跪九叩頭の礼を強要した。しかし、アマーストはこれを拒否。交渉まで至らなかった。

 イギリスは、日本にも使節を派遣した。この頃の日本は、徳川家斉バブルの絶頂期である。当時の日本もイギリスを嫌っていた。08年のフェートン号事件である。そのため、この時に開国までの交渉に至らなかった。日本は20年代異国船打払令を出す。

ナポレオン戦争後のイギリス

15年 穀物法制定

 ナポレオン戦争終結に伴い、大陸封鎖令は解除された。これによりフランスなどの安い農産物がイギリスへ輸入された。これにより農産物価格が急落した。当時の議会は地主しかいなかった。そのため、農産物価格の急落を防止するために穀物法を制定した。穀物法は農産物輸入に規制をかける保護貿易である。

 この政策は、資本家や都市労働者の反感を買った。これにより、コブテンら産業資本家は反穀物法同盟を結成。参政権穀物法廃止を訴えた。

19年 インドの第三次マラーター戦争

 ナポレオン戦争の混乱期に、南インドで反乱がおきた。第3次マラーター戦争である。
 マラーターはもともとフランスとイギリスが拮抗して地域である。18世紀の第一次マラーター戦争(七年戦争)でイギリスの勢力圏となった。そのため反英感情を持つものも多かった。
 ナポレオン戦争後で強力なイギリス軍が鎮圧。これにより、インドは西北インドのシク王国以外がイギリスの勢力圏となった。

19年 紡績工場法(労働基準法

 産業革命が始まったころの労働環境は劣悪であった。今のような労働基準法はなく、都市労働者は女性はもちろん子供まで働いていた。労働時間も休みはなく、1日12時間以上働かせていた。そのため、十分な睡眠時間をとることもできなかった。

 イギリス議会は、これはあまりにひどいと考え、労働時間に制約を加えることした。16歳未満の子どもに対して12時間以上の労働を禁止した。現在社会から見ればひどい内容だが、当時としては画期的な内容であった。しかし、これは実行力を持っていなかった。当時労働基準監督署など違法労働を取り締まる国家機関がなかったためである。

 

 

この頃の日本は

 

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 イギリスの敵、ナポレオン皇帝とは

 

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 イギリスが向かった清王朝の状況は

 

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