2世紀のフランス ローマ帝国 五賢帝の全盛期
2世紀、日本はまだ弥生時代で小国が乱立していた。いくつかの国が中国へ使いを送っていた。
そのころのヨーロッパは、ローマ帝国の全盛期である。この時代を五賢帝時代という。ローマ帝国は、ヨーロッパはもとより、北アフリカや中東の東半分を支配していた。
2世紀後半、漢王朝が衰退が始めた。同じようにローマ帝国も陰りが見え始めた。ゲルマン民族の侵入とペルシア(パルティア)の戦いである。
- 96年 五賢帝時代の始まり ネルウァ帝
- 98年 最大版図を獲得したトラヤヌス帝
- 117年 平和共存路線へ転換 ハドリアヌス帝
- 138年 平和を享受 アントニヌス=ピウス
- 161年 哲学者 マルクス=アウレリウス=アントニヌス
- 180年 五賢帝時代が終わる。→ローマ衰退期へ
96年 五賢帝時代の始まり ネルウァ帝
66歳の高齢で皇帝就任
前皇帝の強権的手法を改め、元老院と協調路線
この時代から、皇帝就任には元老院(議会)の承認をとるようになる。
98年 最大版図を獲得したトラヤヌス帝
スペイン出身<初のイタリア以外出身>の軍人
元老院と協調、騎士身分を重用
騎士とは、平民出身の政治家
106年 東欧ルーマニアを征服
ローマ人が大量移住 → ローマ人の国がルーマニアの語源
114年 ペルシア(パルティア)がカフカス地方のアルメニアへ侵攻
115年 ローマ帝国、ペルシアのバグダードを占領。
→ ローマ帝国、最大版図
117年 平和共存路線へ転換 ハドリアヌス帝
スペイン出身の軍人
国土拡張路線から転換
奴隷の供給が止まる。 → 奴隷の地位向上(コロヌスへ)
ローマ帝国領の各地を歴訪
ペルシア(パルティア)との戦争を中止
アルメニア(カフカス地方)、イラクをペルシア(パルティア)に返還
ゲルマン人とペルシア(パルティア)との戦いに専念
122年 ハドリアヌスの壁をイングランドに築く。
→ イングランドとスコットランドの国境
都市の建設
首都ローマの整備
ギリシアの北、アドリアノーブルの建設
アテネの復興
132年 ユダヤ人の反乱
138年 平和を享受 アントニヌス=ピウス
南フランス出身のも元老院議員
大きな戦がなく、イタリアを出ることはなかった。
150年 ゲルマン民族ゴート族、黒海沿岸を南下
158年 キリスト教保護令
161年 哲学者 マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア学派の哲学者 → 『自省録』を著す
禁欲こそ正義 → ストイックの語源
ペルシア(パルティア)がアルメニア(カフカス地方)へ侵攻
165年 ペルシア(パルティア)がバクダード(クテンシフォン)を占領
166年 ローマで疫病が流行
166年 ゴート族がハンガリー侵攻
175年 ゴート族と講和
177年 ゴート族の反乱が再燃
180年 ゴート族との交戦中に死亡
180年 五賢帝時代が終わる。→ローマ衰退期へ
180年 ゲルマン人帝、ローマ帝国内在住が始まる。
199年 ローマ帝国、イラクのバグダード(クテンシフォン)をパルティアから略奪
次回予告
このころ中国では