1880年代、明治時代の日本は、大日本帝国憲法を制定。国会を開設した。列強から一目置かれる存在にはなったが、まだアジアの小国として扱われた。
そのころ、ペルシアでは、イギリス(イギリス領インド)とロシアのグレートゲームが展開されていた。
アフガニスタン、イギリスの保護国になる。
イランの東隣、アフガニスタンでは、第二次アフガン戦争が終結。第二次アフガン戦争に勝利したイギリス(イギリス領インド)は、アフガン王国から外交権を奪い、保護国とした。
80年、アフガン王国で反乱。イギリス軍は反乱軍に敗北。イギリスはアフガン王国の直接統治をあきらめた。
その後のアフガン王国
1918年、アフガン王国は第一次世界大戦で疲弊したイギリスに宣戦。第3次アフガン戦争が勃発。翌1919年、アフガン王国、第3次アフガン戦争に勝利。独立を回復した。
ロシア、中央アジア進出
アフガンの北東、中央アジアではトルキスタンがロシアの進出に抵抗していた。しかし、81年トルクメンがロシア軍に敗北。ロシアの中央アジア併合は完了した。この地域は、91年のソ連解体までロシアの勢力下になる。
ペルシア帝国銀行設立
85年、カジャール朝ペルシアでは、イギリス資本によりペルシア帝国銀行を設立。カジャール朝ペルシアは、通貨発行権を認めた。また、89年には、同行へ石油採掘権を与えた。これにより、カジャール朝ペルシアは、イギリスに財政・金融を支配されるようになる。これが1891年のタバコボイコット運動につながる。
次回予告
「1870年代のペルシア カジャール朝 」
このころ日本は
このころヨーロッパは
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このころ中国は