5世紀のロシア ビザンツ帝国 西ローマ帝国の滅亡
5世紀、日本は古墳時代である。
4世紀末、ローマ帝国は東西に分裂した。ビザンツ帝国の前身東ローマ帝国の誕生である。東ローマ帝国は、ササン朝ペルシアと戦いながら東地中海を統治し続けた。
一方、西ローマ帝国はまもなく滅亡。西ヨーロッパはゲルマン民族の国が乱立するようになる。また、中東の大国ササン朝ペルシアは、異民族の侵入に苦しんでいた。
前回の復習 6世紀のビザンツ帝国
6世紀のビザンツ帝国は、ユスティアヌス帝が地中海を再統一していく時代である。
ユスティアヌス帝が即位する前のビザンツ帝国は地中海沿岸の東半分を支配し、ササン朝ペルシアとの抗争を繰り返していた。
395年 ローマ帝国東西分裂
デオドシウス帝没後、兄弟で分割統治した。
東ローマ帝国は、兄アルカディウス帝が引き継いだ。都は引き続きコンスタンティノープルを使用した。領土としては、バルカン半島、小アジア(トルコ)、シリア、エジプトであった。この東ローマ帝国がビザンツ帝国である。
当時の脅威、ゲルマン民族は西ローマ帝国へ向ったので比較的安定した時代を過ごした。しかし、東ローマ帝国は、カフカス地方やメソポタミア(イラク)をめぐり、ササン朝ペルシアとの抗争が続いた。
西ローマ帝国の滅亡とイタリア
76年 西ローマ帝国滅亡
76年、西ローマ帝国(イタリア)が滅ぶ
東西分裂後の西ローマ帝国は2つの問題を抱えていた。一つはシリア・エジプトなどの穀倉地帯を失ったこと。もう一つは、ゲルマン民族の侵入である。当時、西ローマ帝国はゲルマン民族を傭兵として雇っていた。その傭兵隊長オドアケルがクーデターを起こし、皇帝を追放した。その後、オドアケルは皇帝を名乗らず、ゲルマン人の王と称しビザンツ帝国(東ローマ帝国)に服従した。
93年 東ゴード族、イタリア侵入
93年、ゲルマン民族の東ゴート族がオドアケルを暗殺。イタリアを支配する。東ゴート族は5世紀半ばに、パンノニア平原(ハンガリー)で生活していた。
東ゴート族は、首都をローマではなくイタリア北東部のラヴェンナに置いた。東ゴート族はローマ教会で異端とされていたキリスト教アリウス派を信仰していた。そのためローマに拠点を置くことができなかった。
しかし、ローマの文化を尊重していたのでローマ人との関係は良好であった。
ビザンツ帝国は、イタリアを再び失った。これを奪還するのが6世紀のゴード戦争である。
東の強国ササン朝ペルシア、エフタルの侵入に苦しむ
このころ、東の強国ササン朝ペルシアの状況はどのようになっていたのであろうか。
5世紀初頭からイラン系の遊牧民族エフタルが東方から侵入。ササン朝ペルシアはエフタルの戦いの忙殺されていた。
次回予告
ローマ帝国の拠点がローマからコンスタンティノープルへ移ったのか
「4世紀のロシア ローマ帝国 コンスタンティノープル遷都」
お楽しみに
このころの日本は
このころの西ローマ帝国は
このころのササン朝ペルシアは