9世紀のロシア ロシアの成立
9世紀(800年~)、日本は平安時代初期。菅原道真が遣唐使を廃止したころである。
ロシアは、この時代に国家を形成した。ノヴゴロド国とキエフ公国である。
ロシア編ですが、当初ここで終了する予定でしたが、ロシアの前身であるビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史も見ていく予定です。
ロシアの成立
ロシアで国家が成立したのは、9世紀のことである。北欧に住んでいたノルマン人が原住民である東スラブ人を統治する形で始まった。この時
62年 ノヴゴロド国
ロシア北部(バルト海沿岸)に建国。
ノルマン人ルース族の族長リューリクが建国
当時、ロシアには東スラブ人が多く住んでいた。
後にハンザ同盟がここに商館を置いて、重要な商業都市となった。
なお、ルーシ族がなまって、ロシアという国名になった。
82年 キエフ公国建国
ロシア南部、現在のウクライナのあたりに建国。
首都キエフは、現在のウクライナの首都である。
リューリクの子が、ドニエブル川を南下して建国した。
のちに、ノブゴロド国を併合する。
黒海に面しており、ビザンツ帝国やイスラム商人と交易を行った。
ロシアは、ノルマン人の商業技術で発展する。
ノヴゴロド国とキエフ公国は、ドニエブル川を使って黒海とバルト海を結ぶ交易で大きな富を得た。
のちに、ノヴゴロドは北海商業圏に属し、北ドイツのハンザ同盟やイギリス、オランダとの交易を行った。
一方、キエフ公国は、黒海を通じてイスラム商人との交易を行うとともに、ビザンツ帝国を通じて地中海商業圏にも参加した。
当時のノルマン人
ノルマン人は、北欧発祥の民族である。船を使って漁業や商業で生計を立てていた。また、河川を通じてヨーロッパ内陸部にはいり、たびたび農耕民族を襲っていた。
当時、ノルマン人は、イングランドや北フランスへも侵攻していた(第二次民族大移動)。9世紀には北フランスにノルマンディ公国が成立。10世紀にはイングランドにデーン朝が成立した。
スラブ人とは
スラブ人は、東欧に住む人々である。ただ、東欧は深い川や高い山脈がないため、多くの人種が流入した。ルーマニアの
東スラブ人
ロシア人など、ギリシア正教会を信仰。ノルマン人の支配を受ける。
西スラヴ人
ポーランド人、チェック人などの東欧諸国の人々。ローマ=カトリックを信仰
南スラブ人
セルビア人などのバルカン諸国の人々。一時、オスマン帝国の支配を受ける。
大部分は、ギリシャ正教会を信仰。しかし、神聖ローマ帝国の近くのクロアチア人やスロヴェニア人はギリシャ正教会を信仰した。
9世紀の東欧諸国の状況
9世紀は、第二次民族大移動の時代である。西欧には、フランス・ドイツの原型である東西フランク王国が成立していた。このフランク王国とロシアの間にはどのような国があったのだろうか。
3回目のアジア騎馬民族の侵入、ハンガリー(マジャール人)
9世紀末、新たなアジア騎馬民族が東欧へ侵入した。ハンガリー人(マジャール人)である。4世紀のフン人、7世紀のブルガリア人につづく、3回目のアジア系騎馬民族の侵入である。
ビザンツ皇帝は、ハンガリーと同盟。ブルガリアを南北から挟撃した。しかし、ブルガリアはこれを撃退した。ハンガリーは西へ逃走。チェック人のモラヴィア王国へ侵攻した。
西スラブ人、チェック人のモラヴィア王国
9世紀初頭、西スラヴ人のチェック人は東欧にモラヴィア王国を建国した。現在のハンガリーのあたりに建国。当時、この地域はブルガリア人が支配していた。しかし、ブルガリアが東フランク王国(ドイツ)との戦いに疲弊すると、西スラヴ人が独立して黒海を建設した。建国時は、東フランク王国(ドイツ)と同じローマ=カトリックを信仰していた。しかし、東フランク王国(のちのドイツ)と交戦状態。9世紀半ば、ビザンツ帝国の支援をうけるためギリシア正教会に改宗した。
9世紀に入ると、ブルガリアに追われたハンガリー(マジャール人)が侵攻。10世紀に滅亡した。
バルカン半島の大部分を支配するブルガリア
ブルガリアは、7世紀にヨーロッパへ侵入したアジア系騎馬民族である。9世紀に入ると、ハンガリーやビザンツ帝国に勝利。バルカン半島の大部分を支配した。この国は、ビザンツ帝国にとって最大の脅威となった。
ブルガリアは、バルカン半島のキリスト教徒の支持を受けるため、キリスト教へ改宗した。キリスト教は8世紀の聖像禁止令でローマ教会(ローマ=カトリック)とビザンツ帝国(ギリシア正教会)が対立していた。9世紀、ブルガリアがどちらの教会につくが最大の関心ごとであった。9世紀半ば、ブルガリアはギリシア正教会を選択した。
ロシアの前身、ビザンツ帝国は
ビザンツ帝国は、ローマ帝国を起源に持つ国で、コンスタンチノーブル(現在のトルコのイスタンブール)を都にしていた。ビザンツ皇帝は、ギリシア正教会のトップを兼ねていた。
9世紀になると、イスラム教国家やブルガリアによって大部分の領土を失っていた。
しかし、8世紀のアッバース革命でイスラム教の侵攻は和らいでいて平和な時代がおとずれていた。
一方、8世紀の聖像禁止令問題で、ローマ教会と対立するようになる。9世紀はブルガリアの布教問題でローマ教会と争いを繰り返した。9世紀半ば、ブルガリアはギリシア正教会を選択した。
一方で、ビザンツ帝国の最大の敵は、バルカン半島のブルガリア帝国であった。ここから10世紀まで、ビザンツ帝国とブルガリアの戦争が続く。
なお、9世紀半ばにマケドニア朝が成立した。
このころ日本は
ビザンツ帝国と対峙するローマ教会は
64年 ブルガリア、ギリシア正教会を信仰
67年 マケドニア朝成立