1870年代のギリシャ・トルコ ミドハト憲法と露土戦争
1870年代、日本は明治初期。岩倉使節団が欧米を訪れていたころである。
このころ、トルコでは、ミドハトがアジア初の憲法を作った。しかし、まもなくこれは停止された。そのような中、露土戦争が勃発した。
前回の復習 アブデュル=ハミト2世の専制政治
80年代、オスマン帝国は、アブデュル=ハミト2世の専制政治が始まった。これは、1900年代の青年トルコ革命まで続く。
今回は、アブデュル=ハミト2世の専制政治が始まる。70年代のオスマン帝国を見ていきます。
ミドハト憲法
ミドハト宰相とミドハト憲法
ミドハト=パシャは日本でいう伊藤博文に当たる存在である。フランス留学を経て、地方で実績を上げ、中央政界へ進出。72年に大宰相となった。ミドハト=パシャは宰相になると立憲政治を目指して憲法制定に尽力した。76年、ミドハトの支援で、アブデュル=ハミト2世がスルタンに即位。その年の12月、ミドハト憲法が発布された。大日本帝国憲法発布の13年前の出来事になる。
パリコミューンとミドハト憲法
1870年、普仏戦争で敗北したフランスで、労働者による反乱が発生。フランス革命以来の社会主義政権が誕生した。このニュースは、西欧化政策を進めるアジア諸国に伝わわった。ミドハトもその一人であった。ミドハトは、フランスとイギリスを比較していたものと推測される。当時のイギリスはヴィクトリア女王の黄金期である。70年代、イギリスはインドを併合。また、混乱するフランスからエジプトの実権を奪っていった。これを支えていたの議会と二大政党制である。フランスは普仏戦争の敗戦のような失政を行うと、政権交代のため革命が発生する。そのため、多くの時間と多くの血を流す必要があった。一方で、イギリスは国王(女王)が首相の首を切るだけで政権交代が完了する。そのため、ミドハトはイギリス型の政治体制を構築するため、憲法制定を急速に進めた。
実は、伊藤博文も岩倉使節団として70年代のヨーロッパを訪れている。岩倉使節団のメンバーはフランスの惨状を見て、憲法の必要性を痛感したと思われる。
73年恐慌と財政難
オスマン帝国は、日本と違い急速に憲法を制定しなければあらない理由があった。それが財政難である。50年代のクリミア戦争の戦費でオスマン帝国の財政はひっ迫していた。さらに、ロシア帝国が70年に黒海中立化宣言を破棄。いつでもオスマン帝国へ侵攻する構えになっていた。そのため、軍事費を削減することができなかった。
さらに、73年にヨーロッパで恐慌が発生。資金調達がさらに困難になった。
そのため、mミドハトは至急に憲法を制定して、オスマン帝国の信用力と高める必要があった。
ミドハト憲法の停止とアブデュル=ハミト2世の専制政治
しかし、スルタンのアブデュル=ハミト2世はこれを認めなかった。翌77年、ロシア=トルコ戦争が勃発すると、ミドハト憲法を停止した。ミドハトはメッカに流刑。その後、ミドハトは殺害された。
このあと、アブデュル=ハミト2世の専制政治が1900年代の青年トルコ革命まで続いた。
露土戦争 クリミア戦争のリベンジマッチ
露土戦争の始まり
イスタンブールでミドハト憲法の発布が行われていたころ、バルカン半島でキリスト教徒(東方正教会)による農民反乱が発生した。これがおきたのはバルカン半島北東部のボスニアヘルツェゴビナであった。次いで、東部のブルガリアでも独立運動が始まった。
自治権を得たセルビア公国、モンテネグロ公国はこれを2つの農民反乱を支援した。
アレキサンドル2世率いるロシア帝国は、この混乱したオスマン帝国へ向って侵攻した。これにより始まったのが露土戦争である。50年代のクリミア戦争のリベンジマッチである。当時のロシアは、農奴解放令で内政が整備された。また、ビスマルク外交によって、オスマン帝国にヨーロッパ諸国が支援する可能性は低かった。
サンステファノ条約(オスマン帝国、ロシアに敗れる)
露土戦争は、ロシアの勝利で幕を閉じた。ロシアとオスマン帝国2国間で以下の条約が締結された。
オスマン帝国は、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認めた。
オスマン帝国は、ボスニアヘルツェゴビナの政治改革を約束した。
オスマン帝国は、ブルガリアの自治権を認めた。この時のブルガリアは、マケドニアとアルバニアも含まれていた。これにより、ブルガリア経由で地中海へ出るルートを確保した。
ロシア版三国干渉 ベルリン条約
ベルリン条約は、ロシア版三国干渉といえる条約である。
サン=ステファノ条約に反発した国が2つあった。イギリスとオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)である。オーストリアは当時多民族国家で帝国内に多くのスラブ系民族を抱えていた。そのため、バルカン諸国の独立運動がオーストリアへ波及することを恐れていた。イギリス(ディズレーリ)は、当時エジプトの植民地化を進めていた。そのため、ロシアの地中海進出には特に警戒していた。
これを仲介したのが、ドイツ帝国のビスマルクである。ドイツ帝国は70年代に普仏戦争で勝利していできた国である。70年代~80年代は、ドイツ帝国宰相ビスマルクを中心に平和外交が保たれていた。実際に、80年代ヨーロッパで大きな戦争が起きていない。
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を再確認した。さらに領土が拡張された。
ブルガリアの自治権は認められた。しかし、マケドニアとアルバニアはオスマン帝国へ返還させられた。これにより、ブルガリアは、現在のような黒海沿岸の小国となった。なお、マケドニアとアルバニアから、オスマン帝国が撤退するのは1910年代の第一次バルカン戦争の時である。一方、ロシアは地中海へ出るルートを再び閉ざされた。
オーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)は、ボスニアヘルツェゴビナの統治権を得る。これは、セルビアを刺激した。ボスニアヘルツェゴビナをめぐり、セルビアとオーストリアは対立する。これが火を噴いたのが1910年代の第一次世界大戦である。
このほか、イギリスはキプロス島を獲得した。エジプト進出をはかるイギリスにとってこの地は最重要拠点となった。なお、キプロス島は1960年にギリシャへ割譲される。この島は、現在ギリシャ系住民とトルコ系住民で対立している。
一方、フランスは北アフリカのチュニス獲得した。当時フランスは北アフリカのアルジェリアに進出していた。
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ミドハト憲法のきっかけ、パリコミューンとは
露土戦争を戦ったロシアは