1880年代ミドハト憲法に遅れて、大日本帝国憲法が制定された。このころ、ヨーロッパはアフリカ分割にいそしんでいた。
そのころ、オスマン帝国は、70年代の露土戦争の敗北により、衰退方向に向かっていた。
前回の復習 ドイツ帝国の3B政策
80年代のヨーロッパ
露土戦争で失ったもの、残ったもの
アブデュル=ハミト2世の専制政治
70年代、ミドハトがミドハト憲法を制定。立憲君主制への移行を試みた。しかし、アブデュル=ハミト2世は憲法を停止。スルタンの専制政治が行われた。しかし、西洋化政策は引き続き行われた。この時期の西洋化政策の特徴は、後述のオリエント急行である。
これは、19世紀前半のイギリスとフランスを比較して、イギリス型の政治スタイルをとろうとしたためである。立憲君主制を選択したイギリスは、革命の影響は大きくなくこの時代、大帝国になった。一方、フランスは、19世紀前半に革命が頻発。多くの血を流した。
これは、19世後半から20世紀初頭の日本とトルコの関係につながる。立憲君主制へ移行できなかったトルコは、青年トルコ革命、トルコ革命と革命が頻発。ついにはオスマン帝国は滅亡し、トルコ共和国へとなった。一方で日本は、80年代に大日本帝国憲法を制定。無理をして立憲君主制を維持した。その結果、日露戦争、第一次世界単線に勝利。国際連盟では常任理事国となる国へと変貌した。
この結果は、どこから来たのだろうか。憲法制定への時間の掛け方かもしれない。ミドハト憲法は、70年代に制定された。一方、大日本帝国憲法は10年もの時間をかけて80年代に制定された。日本は、この期間にミドハト憲法の停止も見ている。このことも配慮して憲法を制定している。
オリエント急行が開通
この時代、フランスのパリとオスマン帝国のコンスタンティノープル(イスタンブール)をオリエント急行が開通した。オリエント急行はフランスのパリとオスマン帝国のイスタンブールを6日間で結んだ。
ポータルサイトを作成しました。
この頃の日本は
このころのヨーロッパは