1940年代前半のインド 第二次世界大戦とインド独立運動
1940年代前半、世界は第二次世界大戦の真っ只中にあった。
当時のインドは、イギリスの植民地であった。そのような中、インドの東、ベンガル湾には日本海軍が登場していた。
そのような中、インド独立運動を進めていた国民会議派は、この2つの国を天秤にかかけながら巧みに独立運動を進めていた。
第二次世界大戦の経緯
第一段階 ドイツVSイギリス・フランス
第二次世界大戦は39年、ヨーロッパで始まった。39年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結。翌9月、ポーランド分割を開始した。翌40年、ドイツは北欧やフランスへも侵攻した。40年7月、フランスはドイツの支配下に入った。
このころ、東南アジアでは、どうなったのだろうか。フランスがドイツの支配下に入ると、40年9月、日本は旧フランス植民地のベトナム北部へ進駐した。
40年7月、インドで独立に向けたクーデターが失敗。指導者である国民会議派のチャンドラ=ボーズが逮捕された。ガンディーもこのクーデターへの協力を求められたが、実現可能性が低いと判断し、参加しなかった。チャンドラ=ボーズはその後、脱獄しドイツへ亡命。チャンドラ=ボーズは、ドイツのヒトラーにインド独立の支援を求めた。しかし、ヒトラーはこれを拒否した。
第二段階 ドイツ、ソ連へ侵攻 日本、アメリカ・イギリス(インド)へ侵攻
41年4月、ソ連は日本と日ソ中立条約を締結。41年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄。ソ連へ侵攻した。41年6月、アメリカ・イギリスが大西洋憲章を発表。ソ連はこれに参加した。41年12月、日本は、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。
日ソ中立条約を締結すると、日本は東南アジアにさらに軍隊を送った。41年7月、日本は、旧フランス植民地のベトナム全域を勢力下に置いた。41年12月、イギリスとの戦争が始まった。同12月、日本海軍はマレー海戦でイギリス艦隊を撃沈。日本は、イギリス植民地であるミャンマー、マレーシアなどへ侵攻。東南アジア全域を勢力下に置いた。日本は、現地の独立運動指導者と結び戦争を優位に進めた。
日本は、東南アジア戦線で捕虜となったインド兵から志願者を集め、インド国民軍を結成した。インドの独立を条件に協力を求めた。インドでは、42年6月、ベンガル湾(インドの東側)で日本海軍はイギリス海軍に勝利。日本の勢力圏はインドの東側まで到達した。
第三段階 ドイツ・日本劣勢へ
42年、戦況は大きく一変した。42年6月、日本はミッドウェー海戦でアメリカに敗北。多くの艦隊を失った。翌43年、ドイツはソ連の冬将軍によって、多くの兵を失った。同43年、イタリアは降伏した。
しかし、東南アジアはまだ、日本の勢力下にあった。43年11月に大東亜会議を開催した。
このころ、ドイツで活動していたチャンドラ・ボースが来日。インド国民軍に合流した。
第四段階 連合国、戦後構想について会談を行う
43年に入ると、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳会談が開かれた。43年11月テヘラン会談。45年2月ヤルタ会談。45年7月ポツダム会談。そして、ドイツは45年5月、日本は同45年8月それぞれ降伏し、第二次世界大戦は終結した。
東南アジアは、日本の勢力下にあった。44年3月、ビルマからインドへ侵攻しようとするも失敗した(インパール作戦)。インド国民軍もこれに参加した。第二次世界大戦が終結すると、イギリス領インド政府はインド国民軍を裁判にかけようとした。しかし、インド民衆はこれに反発、暴動が発生した。ガンディら国民会議派もインド国民軍を支持していた。そのため、イギリス領インド政府はインド国民軍を裁くことはできなかった。これらの暴動は、インドの独立運動に結び付いた。
このころの日本は
そのころのヨーロッパ情勢は