10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1940年代前半のインド 第二次世界大戦とインド独立運動

 1940年代前半、世界は第二次世界大戦の真っ只中にあった。

 当時のインドは、イギリスの植民地であった。そのような中、インドの東、ベンガル湾には日本海軍が登場していた。

 そのような中、インド独立運動を進めていた国民会議派は、この2つの国を天秤にかかけながら巧みに独立運動を進めていた。

 

 

第二次世界大戦の経緯

第一段階 ドイツVSイギリス・フランス

 第二次世界大戦は39年、ヨーロッパで始まった。39年8月、ドイツはソ連独ソ不可侵条約を締結。翌9月、ポーランド分割を開始した。翌40年、ドイツは北欧やフランスへも侵攻した。40年7月、フランスはドイツの支配下に入った。

 このころ、東南アジアでは、どうなったのだろうか。フランスがドイツの支配下に入ると、40年9月、日本は旧フランス植民地のベトナム北部へ進駐した。

 40年7月、インドで独立に向けたクーデターが失敗。指導者である国民会議派のチャンドラ=ボーズが逮捕された。ガンディーもこのクーデターへの協力を求められたが、実現可能性が低いと判断し、参加しなかった。チャンドラ=ボーズはその後、脱獄しドイツへ亡命。チャンドラ=ボーズは、ドイツのヒトラーにインド独立の支援を求めた。しかし、ヒトラーはこれを拒否した。

第二段階 ドイツ、ソ連へ侵攻 日本、アメリカ・イギリス(インド)へ侵攻

 41年4月、ソ連は日本と日ソ中立条約を締結。41年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄。ソ連へ侵攻した。41年6月、アメリカ・イギリスが大西洋憲章を発表。ソ連はこれに参加した。41年12月、日本は、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。

 日ソ中立条約を締結すると、日本は東南アジアにさらに軍隊を送った。41年7月、日本は、旧フランス植民地のベトナム全域を勢力下に置いた。41年12月、イギリスとの戦争が始まった。同12月、日本海軍はマレー海戦でイギリス艦隊を撃沈。日本は、イギリス植民地であるミャンマー、マレーシアなどへ侵攻。東南アジア全域を勢力下に置いた。日本は、現地の独立運動指導者と結び戦争を優位に進めた。

 日本は、東南アジア戦線で捕虜となったインド兵から志願者を集め、インド国民軍を結成した。インドの独立を条件に協力を求めた。インドでは、42年6月、ベンガル湾(インドの東側)で日本海軍はイギリス海軍に勝利。日本の勢力圏はインドの東側まで到達した。
 

第三段階 ドイツ・日本劣勢へ

 42年、戦況は大きく一変した。42年6月、日本はミッドウェー海戦アメリカに敗北。多くの艦隊を失った。翌43年、ドイツはソ連の冬将軍によって、多くの兵を失った。同43年、イタリアは降伏した。

 しかし、東南アジアはまだ、日本の勢力下にあった。43年11月に大東亜会議を開催した。

 このころ、ドイツで活動していたチャンドラ・ボースが来日。インド国民軍に合流した。

第四段階 連合国、戦後構想について会談を行う

 43年に入ると、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳会談が開かれた。43年11月テヘラン会談。45年2月ヤルタ会談。45年7月ポツダム会談。そして、ドイツは45年5月、日本は同45年8月それぞれ降伏し、第二次世界大戦終結した。

 東南アジアは、日本の勢力下にあった。44年3月、ビルマからインドへ侵攻しようとするも失敗した(インパール作戦)。インド国民軍もこれに参加した。第二次世界大戦終結すると、イギリス領インド政府はインド国民軍を裁判にかけようとした。しかし、インド民衆はこれに反発、暴動が発生した。ガンディら国民会議派インド国民軍を支持していた。そのため、イギリス領インド政府はインド国民軍を裁くことはできなかった。これらの暴動は、インドの独立運動に結び付いた。

このころの日本は

 

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 そのころのヨーロッパ情勢は

 

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