3世紀のフランス ローマ帝国 3世紀の危機、軍人皇帝時代
3世紀の日本は、邪馬台国の卑弥呼が活躍した時代。中国はまさに三国志の戦乱期にあった。
このころのローマ帝国も、漢王朝(中国)同様、巨大帝国の崩壊期を迎えていた。
五賢帝時代終焉後のローマ帝国
五賢帝時代が終わると、ゲルマン民族の侵入やパルティアとの戦いが激化。ローマ帝国は衰退期に入る。
11年 カラカラ帝、ローマ市民権全帝国(すべての属州)に拡大
16年 カラカラ帝、大浴場を建設
20年 ゲルマン民族ゴート族、東西に分裂
20年 ゲルマン民族のローマ侵入活発化
24年 ササン朝(今のイラン)建国
軍人皇帝時代とササン朝ペルシア
35年以降、軍人出身の皇帝が続く軍人皇帝時代に入った。このころになると、皇帝はただのお飾りに過ぎず、軍隊の意に反すれば即座に退位させられた。そのため短命の皇帝が多かった。
このころ、ゲルマン民族の侵入が激しくなった。バルカン方面からはゴート族が、フランス方面には、アングロ=サクソン族やフランク族が侵入してきた。
一方、東には巨大帝国ササン朝ペルシアがあり、激しい抗争が続いていた。皇帝が捕虜になる大敗を喫したこともあった。
35年 軍人皇帝時代
53年 ゲルマン民族ゴート族、ドナウ川にを渡河、ギリシア・トルコへ侵入
57年 ゲルマン民族フランク族、ライン川を渡河、ローマ朝ガリアに侵入
60年 ササン朝皇帝シャープール1世、ローマ皇帝を捕虜にする。
63年 ゲルマン民族フランク族、ピレネー山脈を越えスペインに侵入。
ディオクレティアヌス帝の専制政治
84年、ディオクレティアヌス帝即位。彼は、ローマ帝国の改革を行い、皇帝権力を高めようとした。
専制君主制とキリスト教の迫害
ディオクレティアヌス帝が最初に行ったことは、これまでの政治の在り方を変え、ササン朝ペルシアと同じ専制君主制へ移行した。
そのため、国民に皇帝崇拝を強要。キリスト教徒はこれに反発。大規模なキリスト教迫害が行われた。
帝国四分割
ディオクレティアヌス帝は、広大になったローマ帝国を四分割。それぞれに皇帝を置いた。ディオクレティアヌス帝自身は、ローマを離れ穀倉地帯エジプトに近いトルコに移った。
次回予告
このころ日本
このころ中国