1890年代のペルシア カジャール朝 タバコボイコット運動
1890年代、日本は日清戦争の勝利に沸いていた。これにより、ヨーロッパの植民地競争は清王朝までに達した。
そのころ、ペルシアは、イギリスとロシアのグレートゲームの最中にいた。それに反発するかのようにタバコボイコット運動が始まった。
19世紀のアジア 17世紀の4大帝国が植民地化されていく。
今回から、19世紀に入る。19世紀のアジアの歴史は、17世紀のアジアの4大帝国がヨーロッパ列強に植民地化されていく歴史である。その一例が中国史で登場した清王朝の中国分割である。ちなみに17世紀のアジアの4大帝国とは、中国の清王朝、インドのムガル帝国、ペルシアのサファヴィー朝、そしてトルコのオスマン帝国である。
19世紀のペルシアは、王朝交代が起こりカジャール朝になっていた。このカジャール朝は南からイギリス(イギリス領インド)、北からロシアの脅威があった。カジャール朝の歴史はこの2か国とのかかわり方で理解していくことになる。
カジャール朝ペルシアとは
カジャール朝ペルシアとは1779年に建国したトルコ人国家。首都は、テヘラン。現在のイランの首都である。
立憲革命の引き金、タバコボイコット運動
90年、カジャール朝ペルシアは多額の債務を抱えていた。ペルシアの国債を買っていたのは主にイギリスの投資家である。そのため、国王はタバコに関する権利をイギリス人投機家に販売。
このことに、民衆は反発。91年、アフガーニー氏やウラマー氏を中心にタバコボイコット運動を始めた。
92年、国王は、イギリスへのタバコ利権の販売を取り消した。しかし、このことにより、カジャール朝ペルシアはイギリスに対し多額の違約金を支払うこととなり、財政はさらに圧迫、1906年の立憲革命へつながる。
イスラム教徒にとってタバコとは
イスラム教では、飲酒(アルコール)は禁止されている。そのため、タバコは唯一の嗜好品といっても過言ではない。そのため、タバコの禁止はペルシア人にとってかなりの苦痛であったと推測される。
次回予告
「1880年代のペルシア イギリス、隣国アフガニスタンを保護国化」
このころの日本
このころのヨーロッパ
このころの中国