10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

6世紀のロシア ビザンツ帝国 ユスティアヌス帝の地中海再統一

 6世紀(501年~)、日本は飛鳥時代。仏教が日本に伝わったころである。

 このころ、東欧のビザンツ帝国はユスティアヌス帝が地中海を再統一していた。

 ビザンツ帝国は、4世紀に分裂したローマ帝国の東側に当たる。5世紀に西ローマ帝国は滅亡、ゲルマン民族の国が乱立した。
 6世紀に、ユスティアヌス帝が再統一するが、新たな異民族の登場によりビザンツ帝国は縮小していく。

 

前回の復習

 7世紀初頭、ビザンツ帝国の領土は、小アジアバルカン半島まで縮小していた。周辺国では南スラヴ人ゲルマン民族ランゴバルド族)、そしてササン朝ペルシアが台頭していた。
 今回は、前半ではユスティアヌス帝が地中海を再統一する過程を見ていき、後半では、周辺国がビザンツ帝国へ侵攻していく過程を見ていきます。

6世紀初頭のビザンツ帝国

 4世紀末にローマ帝国は東西に分裂。5世紀に西ローマ帝国は滅亡したものの、ビザンツ帝国東ローマ帝国)は当時の領土を維持していた。東地中海の一帯(バルカン半島小アジア(トルコ)、シリア、エジプト)を支配していた。

地中海を再統一したユスティアヌス帝の生涯

27年 ユスティアヌス帝がビザンツ皇帝に即位

29年 ギリシア哲学の最高峰アカデメイアを閉鎖

 アカメディアとは、紀元前4世紀ギリシアの哲学者プラトンが開設した学園である。アレキサンダー大王の家庭教師アリストテレスもここで学んだ。西洋における学問の最高峰であった。

あ ユスティアヌス帝はキリスト教を重視した。そのため、キリスト教以前の学問(ギリシャ哲学など)を禁止。そのため、アカメディアは異端の学問として閉鎖した。

 このとき、多くの学者がササン朝ペルシアへ移住した。これにより、イスラム圏の科学技術は急速に伸びた。この科学技術は14世紀ルネサンスとしてイタリアへ逆輸入される。ちなみにアカデメイアはアカメディーの語源である。

32年 ササン朝ペルシアホスロー1世と和議

 ササン朝ペルシアはローマ帝国時代から戦争を続けた東の大国である。
 このころ、ササン朝ペルシアは、中央アジアの異民族エフタルの侵入に苦しんでいた。前年31年に即位したホスロー1世ササン朝ペルシアと和議し、エフタルとの戦争に注力した。
 これにより、ユスティアヌス帝はゲルマン民族との戦いに集中できるようになった。

34年 ゲルマン民族ヴァンダル人(北アフリカ)を滅亡

 ビザンツ帝国は、まずアフリカを西へ進んだ。北アフリカヴァンダル族を滅亡させた。
 ヴァンダル族は、ゲルマン民族の一派。西ゴード族にイベリア半島(スペイン)を追われ、カルタゴチュニジア)に拠点を置いた。ちなみにカルタゴ共和政ローマを苦しめたフェニキア人が作った都市である。

34年 「ローマ法大全」完成

 ユスティアヌス帝は、歴代ローマ皇帝の法令をまとめた。これが、「ローマ法大全」である。この「ローマ法大全」はこの後のヨーロッパ世界の民法の基礎になった。19世紀ナポレオンがナポレオン法典を作った際もこれが見本とされ、それまでの民法は「ローマ法大全」が基本となった。

35年 イタリアへ侵攻(ゴード戦争)

 北アフリカカルタゴを押させたユスティアヌス帝は、イタリアへ侵攻した。その際に味方につけたのがパンノニア平原(ハンガリー)にいたゲルマン民族ランゴバルドであった。
 当時、イタリアを支配していたのは、ゲルマン民族東ゴード族である。東ゴード族は4世紀後半、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを倒しイタリアへ侵入した。東ゴート族は、ローマ文化を尊重した。しかし、ローマ帝国で異端とされたアリウスはキリスト教を信仰していたため、ローマ教会と結ぶことはなかった。  

37年 コンスタンティノープルにハギア=ソフィア聖堂を再建

 ドーム型のビザンツ形式で建築。ビザンツ様式の教会として代表となるものである。

 

55年 ゲルマン民族東ゴード王国(イタリア)を滅亡

 55年、ゴード戦争は終結。ユスティアヌス帝は、東ゴード族を滅ぼした。

ユスティアヌス帝はラヴェンナにイタリアの拠点を置く

 ユスティアヌス帝は、イタリアの拠点をローマではなく北東部のラヴェンナに置いた。

 ラヴェンナは東ゴード族の拠点であり、当時はローマよりも栄えていた。東ゴード族はローマ教会と対立していたため、ローマに拠点を置くことができなかった。そのため、もともとの拠点であるパンノニア平原(ハンガリー)に近いローマ北東部のラヴェンナに拠点を置いた。そのため、このころイタリアの中心はローマでなく、ラヴェンナになった。

 ユスティアヌス帝は、ラヴェンナサン=ヴィンターレ聖堂を建設した。これもビザンツ様式で建てられた。

65年 ユスティアヌス帝、没

ビザンツ帝国に侵攻する3つの民族

ササン朝ペルシア(東、ペルシア)

 ササン朝ペルシアは、ローマ帝国時代からの東の強敵であった。6世紀、ホスロー1世の全盛期である。32年に和議を締結した。

 ホスロー1世は、40年にシリアへ侵攻。シリアの大都市アンティオキアを占領。多くの捕虜を連行した。57年、エフタルを滅ぼすとビザンツ帝国への侵攻をさらに進めた。61年、ユスティアヌス帝と再び和議を結んた。また、ビザンツ帝国のインド貿易の拠点イエメンを占領した。

ランゴバルド族(西、イタリア)

 ランゴバルド族は、パンノニア平原(ハンガリー)にすむゲルマン民族である。
 ユスティアヌス帝とともにゴード戦争を戦った。

 しかし、ユスティアヌス帝がなくなり、ビザンツ帝国が衰退すると独立。68年イタリア北東部(ヴェネツィアなど)に侵入。イタリア北東部、ラヴェンナの北にランゴバルド王国を建国した。主要都市として、ヴェネツィアが挙げられる。その名残で<この地域はロンバルディアと呼ばれている。ランゴバルド王国は、ビザンツ帝国との戦いに備え、ローマ教会と連携を強めた。そのため、もともと、キリスト教アリウス派を信仰していたが、ローマ教会と同じキリスト教アタナシウス派への改宗を進めていった。8世紀半ばにはラヴェンナを陥落。ビザンツ帝国をイタリアから追放した。

スラヴ人(北、バルカン半島

 スラブ人は、東欧に住むインド=ヨーロッパ語族である。6世紀後半ビザンツ帝国の衰退をみて、バルカン半島への侵入を始めた。

 

次回予告

 東西分裂した後の東ローマ帝国はどのようになっていったのか
 ビザンツ帝国東ローマ帝国の関係は
 西ローマ帝国崩壊後のイタリアは

「5世紀のロシア ビザンツ帝国

このころの日本は

 

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 このころの西ヨーロッパは

 

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 このころのペルシアは

 

 

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