5世紀のインド 全盛期のグプタ朝にエフタル(ペルシア)が侵入
5世紀、日本では古墳時代。大和朝廷から中国(南北朝時代の南朝)へ何度も使者を送っていた。
このころ、インドはグプタ朝の時代である。
前回の復習 グプタ朝の衰退
6世紀、グプタ朝は東インドの小国になっていた。6世紀半ばにはグプタ朝へ滅亡。インドは分裂状態になった。
今回は、前半でグプタ朝の全盛期の様子。中盤でグプタ朝時代の文化、後半でグプタ朝の滅亡の要因となったエフタルについてみていく。
グプタ朝 中国から僧侶が留学
5世紀のインドは、古代インド四王朝の一つグプタ朝の時代である。グプタ朝は4世紀に成立。都は紀元前2世紀に滅亡したマウリア朝とおなじ北東インドのパータラリプトラである。
チャンドラグプタ2世の全盛期
チャンドラグプタ2世は、4世紀末に王に即位した。インド北西部の部族を滅亡させ、北インドを統一した。
東晋(中国)から法顕が仏教留学
チャンドラグプタ2世の時代、中国(東晋)から留学生がやってきた。東晋の僧侶、法顕である。法顕は、インドから仏典を持ち換えるために使命を持っていた。インドは今でこそ、仏教国ではないが、仏教発祥の地であり、当時仏教先進国であった。そもそも、この時代イスラム教は存在せず、ヒンドゥー教の教義が固まったのもグプタ朝の時代になってからのことである。
法顕が伝えたのはグプタ様式の仏教である。そのため、中国はもちろん、中国から仏教が伝来した日本仏像はほとんどグプタ様式で建造されている。
南北朝時代の中国
このころの中国は、漢王朝滅亡後の魏晋南北朝の戦乱期であった。4世紀初頭、異民族(五胡)の侵入により、晋王朝は華北を捨て、中国南部へ遷都した。これが東晋である。
中国の仏教
漢王朝時代、主として信仰されていたのは儒教であった。しかし、3世紀の三国志からはじまる魏晋南北朝の戦乱期は、中国国民を不安にさせた。その不安は仏教への篤い信仰に結び付いた。
5世紀末になると、中国のあちこちに石窟寺院が建設された。
ナーランダー僧院を建設
法顕を歓待したチャンドラグプタ2世は、留学生を迎える仏教の教育機関を建設した。ナーランダー僧院である。ナーランダー僧院は、グプタ朝滅亡後も、ヴァルダナ朝やパーラ朝(ラージプート時代)の保護を受けて存続し続けた。ラージプート時代の末期である12世紀にイスラム教のゴール朝によって破壊された。
インド版国風文化、グプタ様式
反ギリシアで生まれた、グプタ様式
グプタ朝が成立する前、インドはペルシャ人やギリシャ人の侵攻を何度も受けた。グプタ朝が成立するとインド固有の文化を大切にしようとする風土ができた。その時に見本としたのが紀元前2世紀に滅亡したマウリア朝であった。
これが如実に表れたのが、仏像である。1世紀のクシャーナ朝時代のガンダーラ美術はギリシャやペルシアの影響を受けていた。この時期の仏像は古代ギリシアの彫刻品に似たものも多い。
しかし、この時代の仏像は純インド的な仏像が多く作られた。この仏像をグプタ様式という。
サンスクリット文学の時代
グプタ朝はペルシア語ではなく、インド古来の言語サンスクリット語を公用語とした。このころ、サンスクリット文学の最高傑作が作られた。『マハーパーラタ』『ラーマーヤナ』がつくられた。
このころ、『マヌ法典』もまとめられた。これは、それまでのインドの法令をまとめたものである。ちなみに、6世紀に入ると、ヨーロッパのビザンツ帝国で『ローマ法大全』が編纂された。7世紀はいると中国の唐王朝で『律令制』制が確立した。
0(ゼロ)の発見
このころ、天文学や数学分野も急速に発展した。その中で一番大きいものは現在でもつかわれる10進法と0の誕生である。これらはイスラム圏を通じてヨーロッパに伝わったのでアラビア数字といわれる。ちなみにそれまではローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、、、)が使われていた。
民間ではヒンドゥー教信仰
民間ではヒンドゥー教が信仰が確立した。ヒンドゥー教は、過去のインドの慣習や民間信仰を教習して徐々に形成された。ギリシア神話と同様、多くの神の存在を認めた。シヴァ神などが有名である。ちなみに南インドの飲食店ではピンクの像の置物が置かれれていたりする。これはガネーシャと呼ばれる神である。日本でいう招き猫のような存在である。
エフタルの侵入
グプタ朝の全盛期は長くは続かなかった。ペルシア東部のエフタルがインドへ侵攻した。これにより、グプタ朝は北東インドへ追いやられた。
一方、エフタルは、シルクロードをおさえ、陸上交易に大いに栄えた。
このころの日本は
法顕がいた中国は