1900年代、フランス、ロシアがそれぞれイギリスと和解。ドイツVSイギリスの第一次世界大戦の構図がここに完成する。
1900年ごろの国際情勢
ヨーロッパ各国は、アジア、アフリカで植民地化戦争を繰り広げていた。この時代、イギリス、ドイツ、フランス・ロシア(露仏同盟)の3つのグループに分かれていた。
英仏協商の成立
01年、共和派によるフランス急進社会党が結成(社会主義政党ではない)
軍部の排外的愛国主義、右派の反ユダヤ主義と戦う。
このころ、ユダヤ人の自覚が高まる。→シオニズム
02年、仏伊協商
未回収のイタリア問題でオーストリアと対立していたイタリアを
三国協商側に引き入れる。
02年、日英同盟
04年3月 英仏協商 の成立
(背景)
アジアでは、日露戦争直前でこのままいくと世界大戦になる可能性が高かった
当時のイギリスは南アフリカ戦争(99-02年)で弱っていた。
ドイツのヴェルヘルム2世の世界戦略
ファショダ事件で軍事衝突を回避
(内容)
イギリスのエジプト支配とフランスのモロッコ(アフリカ北西部)支配の
相互承認。
日露戦争に事実上参加しない。(日英同盟と露仏同盟)
14世紀の百年戦争以来の英仏対立がここに終わる。
日露戦争とモロッコ事件
04年、日露戦争勃発。
04年、フランス領インドシナ、ファン=ボイ=チャウが運動を起こす。
フランスから独立し、立憲君主制を目指す。
そのため、日露戦争に勝利した日本に留学生を送る。(トンズー運動)
05年、ロシアで血の日曜日事件
05年、ポーツマス条約で日露戦争が終結。
アメリカが仲介
これで19世紀の英露の対立が終わる。
ロシアは、アジア進出をあきらめ、バルカン進出をもくろむ。
そのため、ロシアは、ドイツとの対立を深める。
05年、フランス社会党が成立。
ゼネストによる社会主義の実現を目指すグループをけん制し、
議会による社会主義の実現を目指す。
05年12月 政教分離法成立。
05年 第1次モロッコ事件、
ドイツのヴェルヘルム2世がフランスのモロッコ支配に対し抗議。
英仏協商に基づいてイギリスがフランスを支持し、ドイツの抗議は退けられた。
ドイツ包囲網の成立(三国協商の成立)
06年2月 ファリエール大統領が就任。
07年 英露協商が成立。
三国協商が完成、第一次世界大戦の構図が完成する。
三国協商 → イギリス、フランス、ロシア、日本、イタリア?
三国同盟 → ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、
アメリカは、中立の立場にいた。
07年 第2回ハーグ万国平和会議→韓国のハーグ密使事件
青年トルコ革命とオスマン帝国の衰退
08年 青年トルコ革命
皇帝専制に対し、青年将校らがクーデターを起こし、立憲君主制に移行。
立憲君主制の日本が、皇帝専制のロシアに勝ったのをうけて実施。
この混乱に乗じて、バルカンに列強が侵入
オーストリア → ボスニアヘルツェゴビナを併合
ロシア → ブルガリアを独立。
セルビア → オーストリアに脅威を感じ、ロシアに接近。
このころの日本は
このころの中国は