10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1910年代のインド イギリス領インド 第一次世界大戦と19年インド統治法

 1910年代、日本は大正時代。第一次世界大戦に勝利。大戦景気に沸き、国際連盟では五大国の仲間入りを果たした。

 当時、インドはイギリス領インド帝国としてイギリスの植民地であった。インドも第一次世界大戦宗主国のイギリスを支援して戦勝国となった。しかし、イギリスが提示した自治(19年インド統治法)は、満足するものではなかった。この出来事がインドの独立運動に拍車をかけた。

 

前回の復習 20年代のインド

 20年代のインドは、ガンディら国民会議派独立運動が活性化した。その原因が19年に成立したインド統治法とローラット法である。全インド=ムスリム連盟(イスラム教徒)もこれを支援していた。今回はインド統治法とローラット法の成立過程を見ていきます。

10年代のヨーロッパ情勢 第一次世界大戦勃発

 ヨーロッパは、フランス陣営とドイツ陣営に分かれた。14年には第一次世界大戦が勃発。19年、ドイツ陣営の敗北により第一次世界大戦終結した。その裏側でロシア革命がおこり、ロシア帝国が崩壊。ソ連が成立した。
 インドの宗主国であるイギリスは、フランス陣営についていた。イギリスはこの戦争に勝利するため、植民地に協力を求めた。中東での三枚舌外交はその一例である。当然、インドもその一つであった。

ベンガル分割令撤回

11年 ベンガル分割法撤回

 イギリスは、国民会議派の要求を受け入れベンガル分割令を撤回した。

 イギリス側がこの要求を受け入れたの理由は、バルカン半島の情勢が悪化し、いつ第一次世界大戦が起きてもおかしくない状況だったためである。

 この出来事により、国民会議派は親英的になったが、反対に全インド=ムスリム連盟は反英的になった。

12年 首都をカルカッタからデリーに移転。

 独立運動の過激化によって、カルカッタが首都機能を失う。そのため、デリーへ首都機能を移転した。デリーは、ムガル帝国の旧都であり、現在もインドの首都である。一方、カルカッタベンガル分割令の舞台、インド北東部のベンガル州にある。16世紀のブラッシーの戦いで東インド会社がここに拠点を置いてからイギリスはここに拠点を置き続けた。

第一次世界大戦下のインド イギリスと国民会議派の親密な関係

14年 第一次世界大戦勃発

 バルカン問題、フランス陣営のロシアとドイツ陣営のオーストリアが対立。バルカン半島セルビアでのサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦は勃発した。インドの宗主国イギリスはフランス陣営で参戦した。 

 イギリスは、ガンディら国民会議派第一次世界大戦に協力を依頼。見返りにインドの自治を約束した。ガンディら国民会議派は、これを承諾した。なお、この時の約束に基づいて成立したのが19年インド統治法である。

 一方、全インド=イスラム連盟は国民会議派と対照的に反英の方に動いた。その理由は、イスラム教国のオスマン帝国がイギリスの敵ドイツ陣営についたためである。また、ベンガル分割令の撤回などイスラム教徒にとって不利な政策も相次いだ。

15年 ローラット法の前身インド防衛法成立

 反英運動を取り締まるための法律。19年成立の「ローラット法」の前身で時限立法であった。

19年インド統治法とローラット法成立

19年 第一次世界大戦終結 ヴェルサイユ会議

 第一次世界大戦はドイツ陣営の敗北で終結した。インドの宗主国イギリスは戦勝国となった。 

 このころ、アメリカのウィルソンが「平和十四原則」を提唱した。そこに「民族自決」の理念が書かれていた。しかし、これが適用されたのはヨーロッパに限られた。
アジア・アフリカ地域の植民地政策は継続した。

 これに対して、アジア各地で反発する動きが生じた。3月に韓国(日本の植民地)で三・一独立運動。5月には、中国(中華民国が建国したばかり)で五・四運動。インドの第一次非暴力不服従運動もこの時期に行われた。


19年 インド統治法とインド版治安維持法(ローラット法)成立

 19年、イギリスはインド統治法を制定した。この法律は、インドにおける憲法に相当するである。それとともにインドのイギリスからの自治権を認める法律である。イギリスは第一次世界大戦の協力する見返りにインドの自治権を認めることになっていた。
 しかし、実際に自治を認められたのは州政府(地方自治)のごく一部に限られた。イギリスに協力したガンディら国民会議派は大いに失望した。
 また、同じ年、インド版治安維持法ことローラット法が成立した。この法律は、逮捕状なしで逮捕できるなど、インドの過激な独立運動を取り締まるものである。
 この2つの法律によって、ガンディら国民会議派は大いに反発。第一次独立運動(非暴力不服従運動)につながった。また、第一次世界大戦で反英になった全インド=イスラム連盟は国民会議派を支持した。

19年 アフガン王国独立

 アフガン王国は中央アジア東部にある国で、インドの北東にある国である。当時アフガンはイギリスの保護国であった。
 19年、中央アジアで第3次アフガン戦争が勃発。アフガン王国は、この戦争に勝利。イギリス領インドから独立した。

 

次回予告

 国民会議派はなぜ反英的になったのか
 全インド=イスラム連盟はなぜ結成されたのか
 イギリスはなぜベンガル分割令を出したのか

「1900年代のインド  イギリス領インド ベンガル分割令国民会議派が反英的に」

このころ日本は

 

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 このころのヨーロッパは

 

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 同じ独立運動を展開した中国は

 

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