1920年代のインド ガンディの非暴力不服従運動
1920年代、第一次世界大戦が終結し、つかの間の平和を享受していた。とくにアメリカは大戦景気で世界をリードする存在になっていた。このころ、日本は、戦後不況や関東大震災で苦しんでいた。
そのころ、インドは独立運動が激化していた。その原因は、19年に成立したインド統治法とローラット法である。その主人公は、ガンディである。
第一次非暴力不服従運動 インド独立運動
第一次非暴力不服従運動とは、インドのイギリスからの独立運動である。19年に始まった。中心となったのが国民会議派のガンディである。主な手段はストライキであった。
原因 インド統治法とローラット法
第一次非暴力不服従運動の原因は、19年インド統治法とローラット法である。インドに成立したこの2つの法律がインド人の反英感情をかきたてた。
インド統治法とは、インドの憲法にあたる法律である。インドは第一次世界大戦に協力する代わりに自治権を得るはずだった。しかし、期待されたほど自治権を得ることができなかった。
一方、ローラット法は、インド版治安維持法である。過激な独立運動組織を弾圧するために制定された法律である。19年、ローラット法に従って、ガンディは逮捕された。そのためインド人の反英感情を逆なでした。
イスラム教徒(全インドムスリム連盟)も国民会議派(ガンディ)の非暴力不服従運動に協力的であった。このころ、イギリスなど連合国は、敗戦国のオスマン帝国に対して過激な要求をおこない、カリフの権威は危機に陥った。そのため、イスラム教徒の間にも反英感情が芽生えていた。
22年 ガンディら国民会議派は、独立運動が過激化したため運動を中止した。
25年 インド共産党が結成。
19年3月、ロシア革命により成立したソ連は、コミンテルンを結成した。コミンテルンとは世界各国の共産党の集まり。20年代各国で共産党が躍進した。
そのような中、インドでも共産党が結党された。28年には労働者農民党を結党。国民会議派と連携し独立運動を続けた。これにより、インドの独立運動は大衆化した。
世界恐慌と「塩の行進」(第二次非暴力不服従運動)
27年 インド統治法改正にむけて憲政調査委員会発足
インドで反英運動のを受けて、27年11月イギリス政府は19年インド統治法の改正に向けた調査委員会を発足させた。
当時、イギリスは保守党政権であった。このころ、インド独立を認めている労働党が台頭。労働党に配慮して発足させた。
しかし、この委員会はイギリス人のみで発足した。ガンディら国民会議派はこれに反発した。これが第二次非暴力・非服従運動につながった。
世界大恐慌
29年6月、イギリスで政権交代。マクドナルド労働党内閣が成立した。29年10月、アメリカで世界恐慌が発生。マクドナルド政権は、インドなどの植民地とともにブロック経済圏を構築。これにより、イギリスは恐慌を克服しようとした。
29年 ネルーら強硬派の台頭
憲政調査会問題で反英運動は最高潮に達した。しかし、反英運動は一枚岩ではなかった。このころ国民会議派は穏健派と強硬派に分裂していた。穏健派はイギリス帝国内での自治権の拡大を求めていた。一方で強硬派は完全の独立を求めていた。
また、全インド=ムスリム連盟(イスラム教徒)も、国民会議派に距離を置き始めた。国民会議派型の強い中央政権体制に警戒をするようになった。イスラム教徒の多い地域である程度の自治を獲得したかった。そのため地方自治の強い連邦制を主張した。
29年12月、国民会議派は、議長に強硬派ネルーが選ばれた。完全独立を主張した。
ガンディの「塩の行進」で独立運動は大衆化
20年代の独立運動は、インドのエリート層だけの問題であった。インド民衆はそれほど関心がなかった。
国民会議派のガンディは、独立運動に大衆をまきこむため、ある政策を提言した。これが「塩の専売」の廃止である。30年1月、ガンディは「塩の行進」を行った。「塩の専売」という生活に密着した政策は、民衆を味方につけた。
このころの日本は
共産党の躍進するロシアの情勢は
ヨーロッパの情勢は