8世紀のロシア ビザンツ帝国 レオン1世、聖像禁止令でローマ教会と対立
8世紀(701年~)、日本は奈良時代に当たる。奈良の大仏が完成したころである。
この時代、ロシアには統一的な国家はなく、東スラヴ人が生活していた。ここからはロシアの前身となったビザンツ帝国(東ローマ帝国)を中心としたバルカン半島の歴史を見ていきます。
8世紀のビザンツ帝国は、滅亡の危機に瀕していた。イスラム教国ウマイヤ朝シリアのコンスタンチノーブル包囲である。この危機を救ったのがビザンツ皇帝レオン1世である。
レオン1世は、聖像禁止令を出しローマ教会と対立した。ローマ=カトリックとギリシャ教会の分裂はこの時に始まった。
レオン1世
イスラム教の脅威
レオン1世が即位した8世紀初頭は、イスラム教ウマイヤ朝の全盛期である。
西ヨーロッパでは、11年にイベリア半島(スペイン)を占領。フランク王国宮宰のカール=マルテルが侵攻を必死に食い止めていた。
このころ、ビザンツ帝国はさらに厳しい状態にあった。11年、首都コンスタンチノーブルをイスラム軍が包囲していた。これに立ち向かっていたのが、ビザンツ皇帝レオン1世である。
18年、コンスタンチノーブル攻防戦に勝利
レオン1世は、「ギリシアの火」作戦でコンスタンチノーブル包囲を解除。コンスタンティノープルを防衛した。
聖像禁止令でローマ教会と対立
イスラム教は、キリスト教をより厳格にした宗教といえる。そのため、レオン1世は、今回のことを反省した。キリスト教の教えを忠実に守ろうとした。その政策が2つである。聖像禁止令と離婚の禁止である。これは、もともとキリスト教の教えであったが、長い期間を経て緩和されていた。レオン1世はこれを厳格に適用した。
これに反発したのが、ローマ教会である。当時、西ヨーロッパはゲルマン民族が多数を占めていた。知識レベルが低く聖書が読めるものは少なかった。そのため絵画などの偶像によって布教を進める必要があった。これにより、キリスト教は、ローマ=カトリックとギリシャ正教会に分裂した。
ローマ教会は、ビザンツ帝国との戦いに備えてフランク王国との関係を強化したのもこのころである。
アッバース革命
50年、コンスタンティノープルに朗報が届く。ウマイヤ朝がアッバース革命で倒れたのである。これにより、イスラム教徒のキリスト教圏への侵攻は和らいだ。
ビザンツ皇帝は、これを機にもう一つの課題に取り組んだ。バルカン半島のアジア系騎馬民族であるブルガリアである。当時、ブルガリアはバルカン半島の大部分を支配していた。ビザンツ帝国はバルカン半島の領土回復を注力するようになる。
このころの日本は
このころの西ヨーロッパの情勢は
ウマイヤ朝の状況は