10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

8世紀のフランス カロリング朝 ムハンマド(イスラム教)なくしてシャルルマーニュ(カール大帝)なし

 8世紀、日本は奈良時代で奈良に大仏が建立された。奈良時代の文化は国際色豊かでとくにペルシア(イラン)の文化を色濃く受けている。

 そのペルシアは、アラブ帝国ウマイヤ朝の支配したにあった。当時のヨーロッパはウマイヤ朝の脅威にさらされていた。

 一方で、フランク王国メロヴィング朝は、分割相続で王権は衰退していた。そのたま、宮宰のカロリング家がカロリング朝を開いた。そして、カール大帝が戴冠をうける。

 

 

宮宰カール=マルテル、アラブ人を撃退。

 フランク王国は、メロヴィング朝の時代であった。しかし、分割相続により王権が弱体化していた。そのような中、イスラム教の侵攻が始まった。そこで活躍したのは、国王ではなく、宮宰カール=マルテルであった。

11年、西隣のスペイン(西ゴート王国)がイスラム教シリア系ウマイヤ朝に滅ぼされる。

14年、カール=マルテル、フランク王国宮宰に就任

17年、ウマイヤ朝ビザンツ帝国の首都コンスタンチノーブルを包囲

20年、ウマイヤ朝、フランスへ侵入

26年、聖像禁止令問題でローマ=カトリックとコンスタンチノーブル教会(〇〇正教会)が対立

32年、フランク王国、トゥール・ポワティエ間の戦いで、ウマイヤ朝を撃退。

ピピン、イタリア最大の都市ラヴェンナローマ教皇に寄進

 イスラム勢力の拡大は、ビザンツ帝国を弱体化させていた。そこで台頭したのがランゴバルド王国である。ランゴバルド王国はイタリア統一政策を進めた。これによりランゴバルド王国とローマ教皇が対立。新たなスポンサーとして登場したのがフランク王国国王ピピンであった。

50年、アラブでアッバース革命 → アラブ軍のヨーロッパ侵攻が止まる。

51年、宮宰ピピン、フランク王に即位。カロリング朝を立てる。

51年、北イタリアのランゴバルド王国、ビザンツ帝国をイタリアから追放
    ビザンツ帝国最後の拠点、ラヴェンナを獲得。
    ランゴバルド王国は、イタリア統一政策を進める。
     → ローマ教皇と対立するようになる。

56年、フランク王ピピン教皇領献上
    北イタリアのランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪う。
    奪った土地をローマ教皇に寄進
    見返りにローマ教皇は、ピピンの王位を支持    

56年、イスラム教スペイン(アッバース朝)で、後ウマイヤ朝が独立

ラヴェンナとは

 当時、イタリアの最大の都市
 イタリア中部の北東部に属する。
 サン=ヴィターレ聖堂などビザンツ様式の建物が多い。

     
カール大帝ローマ教皇から戴冠を受ける。   

68年、カール大帝即位

74年、フランク王カール大帝、イタリア北部のランゴバルド王国を滅ぼす。

86年、イスラムアッバース朝、ハールーン=アッラシード
    アッバース朝全盛期
    バグダードは100万人都市に

87年、ノルマン人(デーン人)の侵入
    第二次民族大移動のはじまり
    デーン人とは、のちのデンマーク
    北海沿岸(イングランドフランク王国北部)で海賊行為
    ここから、イングランドでは、
     デーン人とアングロサクソン人の戦いが始まる。

88年、フランク王カール大帝バイエルン(ドイツ南東部)を併合

91年、フランク王カール大帝アヴァール王国を滅ぼす。
    アヴァール人とは、
     アジア系騎馬民族ハンガリーに本拠地をおき、
     ビザンツ帝国フランク王国スラヴ人と戦っていた。

00年、カール大帝戴冠

次回予告

ゲルマン人は、いかにしてヨーロッパに勢力を拡大したのか

ローマ教皇は、いかにしてローマを守り続けたのか

イスラム教シリア系ウマイヤ朝は、ヨーロッパにどのような影響を与えたのか

「7世紀のフランス メロヴィング朝
  イスラム教の成立がフランスにどのように影響を及ぼしたのか」

お楽しみに

このころの日本は

sekaishiotaku.hatenablog.com

 

このころの中国は 

sekaishiotaku.hatenablog.com