10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

14世紀のフランス カペー朝 教皇のバビロン捕囚と百年戦争

  14 世紀、日本では鎌倉時代から室町時代へ移行する時代である。この14世紀は、疫病が流行したため、経済は停滞した。

 フランスも例外ではなかった。経済の停滞に加え、十字軍の失敗で困窮していた。14世紀に入ると、教会への課税を開始。これにより教皇のバビロン捕囚も始まった。その後、中世最後の戦い英仏百年戦争が始まる。

 

 暗黒の14世紀

 14世紀、アジアもヨーロッパも疫病が蔓延した。その理由は13世紀にモンゴルが台頭し東西の交流が激しくなったためである。

 

教会課税問題と教皇のバビロン捕囚

13世紀末のフランス フランス国王 VS ローマ教皇

 十字軍に敗北。国王や騎士は財政難で悩んでいた。そのような中1385年、フランス国王フィリップ4世が即位。フランス国王はフランス国内の教会に課税し財政難を乗り切ろうとする。1294年ローマ教皇ボニファティウス4世が即位。ローマ教皇は、フランスの教会への課税に反発。さらに十字軍の再結成を模索した。

 このころになると、十字軍の失敗、モンゴルの侵攻、最後の審判*1が訪れないことにより、教皇の権威がだいぶ落ちていた。

三部会 フランス国王フィリップ4世、国民の支持を得る。

  1200年に最後の審判がないことを確認すると、02年フランス国王フィリップ4世は三部会(国会)を開いた。フィリップ4世が恐れたのは1077年カノッサの屈辱であった。そのため、国民(聖職者、諸侯・騎士、平民)の意見を聞いた。結果、教会への課税は承認された。

アナーニ事件 ローマ教皇ボニファティウス4世をボコボコにする

 03年9月、フランス反教皇派が、ローマ教皇ボニファティウス4世を軟禁し退位を迫った。ローマ教皇が退位を拒否すると、反教皇派はローマ教皇をボコボコにした。ローマ教皇は命からがらローマにもどった。しかし、ローマ教皇は10月そのまま憤死した。

 

教皇のバビロン捕囚 教皇庁はローマからフランスへ

  ボニファティウス4世の死後、ローマ教皇についたのはフランス出身のクレメンス5世である。クレメンス5世は、フランスに恭順な姿勢を示し、09年教皇庁をローマから南フランスのアヴィニョンへ移転した。

カペー朝の断絶と百年戦争

教皇の呪い?カペー朝断絶

 14年、フィリップ4世が亡くなると、カペー朝は断絶した。28年、フィリップ6世が即位。ヴァロワ朝が成立した。アナーニ事件で憤死したボニファティウス4世の呪いかどうかはわからない。
 なお、カペー朝は987年に成立。ヴァロワ朝は1589年のユグノー戦争のころまで続く。 

フランスVSイングランド 百年戦争始まる。

  ヴァロワ朝の成立に待ったをかけたものがいた。イングランド*2エドワード3世である。エドワード3世もフランス国王の血が流れている。
 33年、エドワード3世は、フランスへ進軍した。百年戦争である。
 エドワード3世は、13世紀初頭(第3回十字軍のころ)に失地王ジョン王が失った大陸にあったイングランド領の奪還も視野に入れている。特に重視したのが毛織物の産地フランドル(現在のベルギーなど)とワインの産地アキテーヌボルドーなど)である。

 この戦争では、フランス東部(ドイツ側)のフランドル伯爵とブルゴーニュ公爵はイングランド側についてフランス国王と戦った。また、フランス国王もイングランドの北(イギリス北部)のスコットランドと同盟を結んだ。
 

教会大分裂

ペスト(黒死病)と農民反乱(ジャックリーの乱)

  47年、ペスト(黒死病)が流行。ヨーロッパの3人に1人がペストで亡くなったとされる。その原因としては、13世紀のモンゴルの大遠征で大陸東部の病原菌がヨーロッパにもたらされたたためと言われている。同じこと中国でも疫病が流行している。

 その影響で、58年大規模な農民反乱がおきる。ジャックリーの乱である。

 

 

教会大分裂 フランスのアビニョン VS ドイツ・イングランドのローマ

 09年の教皇のバビロン捕囚で、ローマ教皇庁はフランスのアビニョンになった。それに困ったのが、神聖ローマ帝国(ドイツ)とイングランドである。神聖ローマ帝国はローマでローマ教皇の戴冠を受けるのが習わしだがこれをできない状態にあった。また、イングランドローマ教皇庁のあるフランスと交戦中であった。77年、ローマ教皇グレゴリウス11世はアビニョンからローマへ帰還した。しかし、翌78年、グレゴリウス11世が亡くなると、アビニョンとローマでそれぞれローマ教皇が擁立された。教会大分裂大シスマ)である。

 

次回予告

なぜ、ローマ教皇の権威が堕ちたのか。

フランスを困窮させた十字軍とは何か。

エドワード3世が目指したフランス国内のイングランド領とは?

「13世紀のフランス カペー朝 十字軍とモンゴル」

 

よろしければ、コメント、読者登録をお願いいたします。

 

このころ日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 このころ中国は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 

*1:最後の審判とはこの世の終わりにイエス=キリストが復活。生者も死者も裁かれ天国と地獄につれていかれると信じていた。1000年後に行われるといわれ、当時の人々は世紀末(00年)が近づくと最後の審判をおそれ寄進を行った。

*2:イギリス(UK)が成立するのは1707年アン女王の時