10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

12世紀のイギリス アンジュー帝国ことプランタジネット朝の始まり

 12世紀、日本は平安時代末期。武士が台頭し平氏と源氏が対立していたころである。
 そのころイギリスでは、プランタジネット朝が成立した。プランタジネット朝が成立した当初、イングランドの他にフランスの西半分を領土としていた。そのため、当時のイングランドアンジュー帝国と呼ばれている。そのような、12世紀の終わりに第3回十字軍が編成された。

 

 前回の復習 イングランド憲法と議会(国会)が成立

 13世紀、イングランドはフランスに大陸領土の大部分を奪われた。イングランド国王たちは、この地を奪還するためにフランスへ何度も侵攻しようとした。そのためにイングランドに重税をかけてきた。

 これに対し、イングランド貴族は国王に対し反乱を続けた。そして、その勝利により貴族は王権に制限を付けた。それが、憲法(マグナ=カルタ)と後のイングランド議会であった。

ヘンリ1世

ノルマンディ公国を征服

 ノルマン朝は、フランス諸侯であるウィリアム1世イングランドを征服してできたイングランドの王朝である。そのため、ノルマン朝は元々のフランス領土ノルマンディ公国と11世紀に獲得したイングランドを領土としていた。

 ノルマン朝は、2人の統治者がいた。イングランド国王のウィリアム2世とフランス領ノルマンディ公国のロベールである。これは、ウィリアム1世の死後、分割統治をしたためである。

 ウィリアム2世は即位して間もなく狩りの時の不慮の事故で亡くなった。そのあと、ウィリアム2世の弟ヘンリ1世が即位した。
これに、ノルマンディ公ロベールは大いに怒った。ロベールは、イングランドへ侵攻した。ヘンリ1世はロベールと交渉。金銭と引き替えにイングランド国王の地位を確保した。
 しかし、今度はヘンリ1世の軟弱外交に対し、イングランド貴族が反乱を起こした。ヘンリ1世はイングランド貴族に押される形でノルマンディへ侵攻した。ヘンリ1世はノルマンディ公国を征服。ノルマン朝は再び統一された。

後継者にマチルダを指名

 ヘンリ1世は、後継者に自分の娘マチルダを指名した。マチルダは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)皇帝のハインリヒ5世に嫁いでいた。ハインリヒ5世が亡くなるとイングランドに戻った。マチルダは、再婚した。再婚相手はフランス中央部のアンジュー伯ジョフロフである。ノルマンディ公国とアンジュー伯国は隣接していて、常に領土争いを行っていた。

反マチルダ派の反乱

 ヘンリ1世が亡くなると、反マチルダ派が動き始めた。当時、マチルダはフランスのアンジュー伯領にいた。この隙をついて反マチルダ派は別の王を擁立した。マチルダの従弟のスティーブンである。これにより、イングランドは内乱状態になった。この内乱は、マチルダ派が勝利した。
チルダと反マチルダ派はお互いに味方を増やすために有力領主に土地や権限を与えた。そのため、有力領主の地位が大きく上がった。

そのころ、ノルマン人の一派が南イタリア

 11世紀、ノルマン人の一派が地中海へ進出していった。12世紀前半、この一派が南イタリア両シチリア王国を建国した。両シチリア王国は、北アフリカへも侵攻した。この地をめぐり、イスラム教国のムワッヒド朝と戦った。

 ノルマン人は宗教に寛容であった。そのため、キリスト教徒(カトリック教徒)だけでなく、東方正教会キリスト教徒)やイスラム教徒も集まった。その結果。12世紀ルネサンスをもたらした。

 しかし、両シチリア王国には、後継者がいなかった。そのため、この国を引き継いだのは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の息子ハインリヒ6世であった。

ヘンリ2世と巨大アンジュー帝国

プランタジネット朝の成立

 話を再び、イングランドへ戻そう。マチルダが亡くなると、マチルダの子ヘンリ2世が即位した。ここから「プランタジネット朝」と呼ばれる。

 ヘンリ2世は、イングランドとノルマンディ公国だけでなく、父から相続したアンジュー伯も兼任した。さらに、ヘンリ2世はアリエノールと結婚した。アリエノールは、フランス南西部を治めるアキテーヌ公の娘である。ちなみにアリエノールの前夫はフランス国王ルイ7世である。これにより、イングランドイングランドのにフランスの西半分を領土とした。この地をめぐりイングランドとフランスの激しい戦いが始まる。 

国家規模の親子喧嘩

 ヘンリ2世は、晩年次男ヘンリ若王との共同統治を行うようになった。誰もが次の後継者はヘンリ若王と思われた。しかし、ヘンリ2世と側室の間にに末子ジョンが生まれた。のちの失地王ジョン王である。ヘンリ2世はジョンを溺愛した。そのため、ヘンリ若王の領土の一部をジョンに与えようとした。これに対し、ヘンリ若王は激怒、父ヘンリ2世に対し挙兵した。ヘンリ若王の母、アリエノールや弟リチャード、ジェフリーもヘンリ若王を支援した。さらに、フランス国王ルイ7世やスコットランド国王もヘンリ若王を加勢した。
 しかし、ヘンリ2世はヘンリ若王を屈服させた。

獅子王リチャード1世、第3回十字軍に参加

リチャード1世、父ヘンリ2世に勝利しイングランド国王へ

 ヘンリ若王、ジェフリーがなくなり、反ヘンリ2世の中心はリチャードになった。リチャードは、フランス国王フィリップ2世と手を組んだ。そのため、リチャード1世側が有利になった。さらに末子ジョンがヘンリ2世を裏切った。ヘンリ2世はジョンの裏切りにより失意のうちに亡くなった。

オールスターの第3回十字軍

 リチャード1世は、インノケンティウス3世の要請を受けて第三回十字軍に参加した。当時、ローマ教皇の権限が最も強い時期であった。そのため、イングランド国王リチャード1世、フランス国王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のオールスター十字軍であった。

 しかし、開戦直後にフリードリヒ1世がなくなり、フランス国王フィリップ2世も早々に撤兵。リチャード1世は孤軍奮闘で戦い。イスラム教徒側と休戦協定を結んだ。

多額の身代金で、イングランド貴族は戦争嫌いに

 しかし、帰国途中に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に捕虜にされる。純銀35トン(15万マルク)をしはらって、イングランドへ帰国した。純銀35トンは当時のイングランド国家予算の3年分にあたる。このため、イングランド国民は重税を負担するようになった。この事件がイングランド貴族たちに厭戦ムードを引き起こした。そのため、イングランドは十字軍に参加したのはこの第3回十字軍の1回のみである。

 リチャード1世が捕虜の時代。イングランドの大陸領土はフランス国王フィリップ2世に奪われていた。さらに、ジョンはフィリップ2世と結んでイングランド国王の地位を狙っていた。

 リチャード1世は、帰国後フランスと戦争に踏み切り、大陸領土を回復した。そして、ジョンを幽閉した。

 

この頃の日本は

 

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ライバル、フランスは

 

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