80年代、日本はバブル経済に向かっていた。
その前年79年、2つの反米政権が樹立した。イランのホメイニ師のイラン=イスラム共和国とアフガニスタンの共産主義政権である。
80年代、イランとアフガニスタンは戦争状態になる。イランではイラン=イラク戦争。アフガニスタンでは、ソ連のアフガニスタン侵攻である。
イランの孤立化
79年のイラン革命でホメイニ師が最高指導者についた。79年11月に発生したアメリカ大使館占拠事件が81年解決。
イラン=イラク戦争
80年9月、イラクがイランへ侵攻した。要因は、イランとイラクの国境問題である。イランのパフレヴィー朝とイラクの国境は75年アルジェ合意で決まっていた。これはアルジェ合意の破棄となる。
欧米諸国やソ連、中国はイラクを支援した。特にイラクを支援していたのがフランス、ソ連、中国である。この参加国は03年のイラク戦争で反対に回った。とくにソ連は、中央アジアなどのイスラム教徒が独立運動がおこることを懸念していた。また、多くのアラブ諸国もシーア派による革命がおこるのを懸念してイラク支援に回った。
しかし、形勢は逆転した。スンニ派と対立するシリアのアサド政権がイラン支持に回った。アサド政権はイラクとのパイプラインを閉鎖した。このため、現在行われているシリア内戦で、イラクはアサド政権を支援している。
また、欧米と対立していたリビアや北朝鮮もイランを支援した。この戦争により反米政権が結集したことになる。また、アラブ諸国と対立していたイスラエルはイランを支援。イランはイスラエル経由で武器を輸入していた。
これにより、イラン=イラク戦争は硬直した。
当時のイラクの情勢
79年、スンニ派バアス党のサダム=フセインが大統領になる。イラクはもともとシーア派のほうが多い。また、北部には独立願っているクルド人がいた。サダム=フセインはもともとは穏健派で、シーア派には寛容な態度を示し、クルド人にもある程度の自治を認めていた。
穏健派のカーター大統領と強硬派のレーガン大統領
当時のアメリカ大統領は、民主党のカーター大統領である。カーター大統領は人権外交を進めた。イラン革命が始まった78年、エジプト=イスラエル和平交渉を仲介。また、冷戦終結に向かっていた。79年、米中国交正常化、米ソ軍縮条約(SALTⅡ)を成立させた。しかし、79年のイランのアメリカ大使館人質事件で国民の信頼を失い。80年の大統領選挙で敗れる。
81年に就任したのが共和党のレーガン大統領である。穏健外交から強硬外交に変った。
ソ連、アフガニスタン侵攻
イランの東のアフガニスタンでは、79年12月に社会主義政権が樹立。政府組織と反政府組織の内戦が行われていた。反政府側が優勢になると、ソ連のブレジネフ政権は軍事介入をして政府側を支援した。
アメリカのカーター大統領、モスクワオリンピックをボイコット
これに対しアメリカのカーター大統領は、これを非難した。経済制裁を行うとともに80年のモスクワオリンピックをボイコットした。
米ソ間は、アフガニスタン侵攻の直前の79年6月、戦略兵器制限条約SALTⅡに調印。冷戦終結に向かっていたが、アフガニスタン侵攻により再び冷戦に戻った。
アメリカの支援でタリバン政権樹立
カーター大統領は、反政府組織に武器提供を行った。これがのちのタリバン政権である。
国際的な非難をあびて、ソ連が崩壊に向かう。
アフガニスタン侵攻によって、ソ連は国際的な非難を浴びただけでなく、軍事的に相当な負担になった。経済も停滞し、ソ連の国民は不満を募らせた。85年、ブルジネフ政権からゴルバチョフ政権に移行。自由主義改革に向かう。グラノスチ(情報公開)とペレストロイカである。しかし、そのような中、86年ソ連でチェルノブイリ原発事故が発生。ソ連は崩壊へ向かう。
次回予告
「1970年代のイラン ホメイニ師のイラン革命」をお楽しみに
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