10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

11世紀のフランス カペー朝 弱いフランス国王、強いイングランド国王、十字軍はじまる

11世紀、日本では紫式部源氏物語を完成させた。
 そのころ、フランスは、カペー朝の時代であった。とはいっても、地方は有力諸侯が支配していたため、国王の権威はほとんどなかった。

 近隣諸国では、イングランドではノルマン朝が成立。ドイツ(神聖ローマ帝国)は叙任権闘争ローマ教皇と対立していた。

そのような中、十字軍は始まった。

 

 弱い王権のカペー朝

  11世紀のフランスは、パリ伯のユーグ=カペーのカペー家がフランス国王を務めた。しかし、11世紀の時点では、国王の権限はそれほど大きくない。収益もカペー家が直接支配していたパリ周辺に限られていた。フランスの大部分はほかの諸侯が支配していた。

60年、フランス国王フィリップ1世が即位。このあと1328年(百年戦争)まで、カペー家世襲するようになる。

諸侯って何?

 日本でいえば江戸時代の大名のようなもの。領土をもち、その領民から税金を受け取る権利を持つ人々。ほぼ、領土内においてはそれを支えるのが不輸不入権と領主裁判権である。この権利を使い、農民(農奴のうど)を支配した。ちなみに英語ではプリンスという。

不輸不入権とは
  1. 不輸 → 免税特権
  2. 不入 → 警察官などの国家公務員を領土内に入ることを拒否する権利
領主裁判権

 領土内のもめ事を解決する権利
 領土内の警察、司法(裁判所)などは諸侯が担当した。

騎士とは

 国王もしくは諸侯と主従関係を結んだ領主(地主)

フランスの有力諸侯

 ノルマンディー公 
  10世紀にノルマン人のロロによって始まる。

 アンジュー伯
  パリの南西の内陸部を領土とする。
  12世紀にはイングランド国王になる。

 アキテーヌ
  フランスの南西部、スペイン国境を領土とする
  ワインの産地、ボルドーもここに属す。
  12世紀に、アンジュー帝国に吸収される。
  

 

ノルマン人、イングランド王になる

 66年、ノルマンディー公国は、ドーバー海峡を渡りイングランドを征服。アングロ=サクソンの貴族は、ノルマン人に服従。その後、イングランドは国王(ノルマン人)と貴族(アングロサクソン)の対立が起こる。

デーン人が北海沿岸を支配

 デーン人とは、今のデンマークを拠点としたノルマン人。
 8世紀末からイングランドでは、ゲルマン系のアングロ=サクソンとデーン人が国王の地位を争っていた。
 16年、ノルマン人の一派デーン人がイングランドを支配した。デーン朝の始まりである。国王はクヌートであった。

 当時、イングランド国王クヌートは、デンマーク王を兼任。また、ノルウェースウェーデンの一部も支配していた。そのため、デーン朝は北海帝国ともいわれる。
 36年、クヌートが亡くなると、北海帝国は分裂した。イングランドは、再びアングロ=サクソンの国王が復活した。

 

十字軍は、こうして始まった。

88年、ローマ教皇ウルバヌス2世が即位。

95年、クレルモン公会議ローマ教皇ウルバヌス2世がフランス諸侯に大演説。
    ←ビザンツ皇帝の応援要請

96年、十字軍を出発

99年、十字軍成功。イェルサレム王国を建国。

イスラム教徒になったトルコ王朝(セルジューク朝)がビザンツ帝国を圧迫

 38年、トルコ人セルジューク朝が成立。55年、バグダードに入城。アッバース朝カリフからスルタンの称号を受ける。セルジューク朝スンニ派を信仰。エジプトのシーア派ファーティマ朝へ侵攻するとともに、ビザンツ帝国にも侵攻した。

 ビザンツ帝国は、ローマ教皇に支援を求めた。

当時のビザンツ帝国の状況は

 ビザンツ皇帝は、コンスタンチノーブル教会の首長を兼任していた。そのため、ローマ教皇キリスト教のトップの座を争っていた。
 54年、ローマ教皇ビザンツ皇帝は相互に破門。これにより、東西教会は分裂した。ビザンツ皇帝側のコンスタンチノーブル教会は、ギリシア正教会となり現在も残っている。

なぜ、ローマ教皇はフランス諸侯に支援を求めたのか

 11世紀、ローマ教皇神聖ローマ皇帝は対立していた。叙任権闘争である。常任権とは簡単に言えば聖職者の人事権である。これが皇帝と教皇どちらにあるかの闘争が叙任権闘争である。

 神聖ローマ皇帝は、教会に寄進を行う一方で親族や関係者を聖職者につけて帝国内の教会を支配しようとした。

 これに反発したのが、フランス(アキテーヌ)にあるクリュニー修道会(910年に設立)である。49年に就任したレオ10世は、聖職売買の禁止と聖職者の結婚の禁止を行った。73年、クリュニー修道会出身のグレゴリウス7世ローマ教皇に就任。77年、神聖ローマ皇帝を破門。カノッサの屈辱である。

 このため、ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝に支援を求めることができなかった。

農業生産力の急激な向上

 10世紀から12世紀は比較的な温暖な気候が続いた。
 三圃制などの農業技術の進歩
 修道院を中心とした開墾事業

  → 農業生産量が飛躍的拡大、人口が増大した。

 人口増大は、国土の拡張へ向った

  十字軍 
  ドイツ騎士団による東方植民
  スペインのレコンキスタ(国土回復運動)

 

次回予告

 なぜ、フランスの首都はパリなのか?
 ノルマンディー公ってどんな人?

 

「10世紀のフランス カロリング朝 パリ伯のカペー、フランス国王になる」

 

このころの日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 

 

 このころの中国は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com