10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

12世紀のロシア キエフ公国 十字軍遠征の裏で分裂するキエフ公国

 12世紀(1101年~)、日本は平安時代末期。平清盛源頼朝などの武士が政治の中心を担う時代であった。

 このころ、ヨーロッパの最大の出来事は十字軍であった。特に12世紀末に結成された第三回十字軍は、ドイツ、フランス、イギリスの連合軍となる大規模編成となった。ローマ教皇の権威が最高潮になった。

 そのころ、東欧ロシアは、キエフ公国の末期であった。後継者争いで分裂状態にあった。この分裂が13世紀のモンゴルの侵入の要因になる。

 

 

2つの商業圏を結ぶ交易拠点

 キエフ公国は、ドニエブル川と黒海を通じて、地中海商業圏と北ヨーロッパ商業圏をむすぶ交易で大いに経済は潤った。

北ヨーロッパ商業圏

 北海、バルト海を中心とした商業圏。穀物の取れない北欧から海産物や木材・毛織物などの生活必需品を調達する商業圏であった。この商業圏を取り仕切ったのは、北ドイツのハンザ同盟である。北ドイツは、保存食である魚介類の塩漬け技術でこの小魚権を支配するようになった。キエフ公国では、バルト海にほど近いノブゴロドを拠点にしてドニエブル側を通じてキエフへ物を運んだ

地中海商業圏

 地中海を中心とした商業圏。キリスト教圏の諸都市が、イスラムアイユーブ朝エジプトとの交易が中心。主要な商業都市は、カイロにほど近いアレキサンドリアが中心であった。主な商材は、ファーティマ朝アジア諸国から調達した絹織物などの高級品である。その中で最も取引されたのが東南アジアでとれる香辛料であった。冷蔵庫のないこのじだい肉の保存には香辛料は不可欠な存在であった。
 キリスト教圏で主たるプレイヤーは3つの都市であった。イタリア北西部のジェノヴァ、イタリア北東部のヴェネツィア、そしてビザンツ帝国ビザンティウムであった。キエフ公国はこの中の一つビザンティウムから黒海を通じてキエフへ物を運んだ。

衰退するビザンツ帝国と十字軍

 11世紀半ば、イスラム教国で軍事国家が成立した。トルコ人軍人奴隷が建国したセルジューク朝である。
 セルジューク朝は、ビザンツ帝国へ侵攻していった。これに危機感を抱いたビザンツ皇帝は、ローマ=カトリックに応援を要請した。しかし、ローマ=カトリックビザンツ帝国に応援を送らず、十字軍を派遣。独自にセルジューク朝へ侵攻した。

十字軍

 当初、十字軍はフランス諸侯を中心に結成された。しかし、叙任権闘争(教会の人事権に関する神聖ローマ皇帝とローマ=カトリック教皇の争い)が落ち着き、第3回十字軍では、イングランド神聖ローマ帝国(ドイツ)も参加した。第3回十字軍に参加した騎士がドイツ騎士団を結成。ポーランド、ロシアへ侵攻した。(東方植民)

 

なぜ、ビザンツ帝国は宿敵ローマ=カトリックに応援を要請したのか?

 ビザンツ皇帝は、そもそもバックにキエフ公国がついている。わざわざ宿敵ローマ=カトリックに応援を要請する必要はなかった。しかし、この時キエフ公国に応援を要請できなかった。それはキエフ公国が内紛により弱体化していたからである。

 キエフ公国は重要都市と子供たちに治めさせた。しかし、11世紀半ばには、その子孫たちが互いに争う内戦状態になった。

 32年、キエフ公国は完全に分裂。これによりロシア商業圏は次第に衰退。中継交易の拠点はフランスのシャンパーニュを中心とした内陸商業圏へに移行する。13世紀に入ると、モンゴルのバトゥが侵入する。キエフ公国は、各個撃破されモンゴル(キプチャクハン国)の支配下に入る。

このころの日本は

 

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 当時のイスラム教国の状況は

 

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 当時のキリスト教国の状況は

 

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