10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1950年代のインド ネルー首相、中国と第三勢力を結成

  1950年代、日本は朝鮮戦争特需に沸いていた。そのころ、世界では東西冷戦が始まった。

 このころ、インドは

 

 

中国との関係、第三勢力とは

冷戦激化、朝鮮戦争勃発

 東西冷戦は、インドシナ戦争の真っただ中であった。そのような中、50年朝鮮戦争が勃発した。

平和五原則とバンドン会議

 第二次世界大戦後、東南アジアや南アジアで多くの国が独立した。これら、新興独立国は、朝鮮戦争インドシナ戦争など東西冷戦の激化に伴って、東西両陣営の対立に巻き込まれることへの危機感を感じていた。そのため、インド・中国(中国共産党側)を中心に第三勢力を形成しようとする動きが始まった。

 54年04月、南アジアや東南アジアなど首脳がスリランカコロンボで会談を開催した。

 54年06月、ジュネーブインドシナ戦争の講和会議(ジュネーブ講和会議)を開催。インド、中国(共産党政権側)もこの会議に参加した。この会議でソ連陣営、アメリカ陣営に属さない第三勢力の結成を形成しようとする動きが登場した。
 ジュネーブ講和会議の最中、中国(共産党)の周恩来首相とインドのネルー首相が会談。平和五原則を発表した。

 翌55年04月、インドネシアのバンドンでバンドン会議(アジア=アフリカ会議)を開催。

 56年、エジプト(中東)のナセルがスエズ運河の国有化を宣言。第2次中東戦争に突入した。インドなどの第三勢力はエジプト支援の国際世論を形成。アメリカ、ソ連両国は、第三勢力を敵に回したくないので中立の立場をとり、エジプトの勝利でこの戦争は終結した。第三勢力の力を見せつけ戦いであった。

中国とインドが対立、中印国境紛争

 しかし、中国とインドの関係は長くは続かなかった。59年、中国(チベット)とインドで国境問題が発生。これにより、中国とインドは対立するようになる。
 同59年、中国のチベットチベット反乱。ダライラマはインドへ亡命。インドのネルー首相は中国共産党チベット弾圧を非難。
 62年には、中国と武力衝突が起こる。

パキスタンは、インドとの戦争に備えてアメリカとの連携を強化

 パキスタンは、カシミール問題でインドと緊張状態にあった。そのため、パキスタンは親米政策をとっていった。

カシミール問題とは

カシミールは、インダス川上流の内陸部である。この地域はイスラム教徒が多く住んでいたが、藩王(その地域のリーダー)はヒンドゥー教徒であった。そのため、少数派のヒンドゥー教徒と多数派のイスラム教徒が常に対立していた。


54年09月 パキスタン、SEATOに参加

 アメリカが主導した東南アジア諸国の軍事同盟。参加国は、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、パキスタンである。
 アメリカがSEATO結成に動いた理由は、2か月前の会議にさかのぼる。54年07月、ベトナムで起きたインドシナ戦争を講和(ジュネーブ休戦協定)。フランスは、社会主義陣営のホー=チ=ミン政権(インドシナ共産党)に敗北した。アメリカは、東南アジアの共産化防ぐために防共軍事同盟を締結した。
 一方、パキスタンはインドと対立していた。当時のインドは中国に急接近。そのため、インドと対抗するため、パキスタンアメリカ主導のSEATOに参加した。

55年 パキスタン、METOに参加

 パキスタンは、アメリカが主導する中東諸国の防共軍事同盟METO(バグダード条約機構)に参加した。参加国は、アメリカ、イギリス、トルコ、イラク、イラン、パキスタンである。
 METOの結成の目的は、カフカス地方(黒海カスピ海沿岸)をめぐりソ連と対立するトルコ、イランを支援するために結成された。
 しかし、58年、イラクで革命が起き、翌59年METOからイラクが離脱。1978年、イラン革命がおこるとMETOは解散した。

ネルー首相の政策、社会主義政教分離

 50年に共和国憲法を制定したインド。初代首相はガンディーとともに建国に携わったネルーが務めた。ネルー首相の内政の柱は2つある。社会主義政教分離である。

経済面では、穏健な社会主義政策

 ガンディーは、インド古来の伝統思想に基づく政治を行おうとしたが、ネルーはロンドンで学んだ社会主義型の政治社会党のを行おうとした。ただ、ソ連や中国のような過激な共産主義ではなく、フランスやドイツの社会党のような温和な社会主義であった。ただ、格差の是正や計画経済など共産主義に近い点は多々ある。

宗教マイノリティにやさしい政策

 ネルー首相の内政政策のもう一つの柱は政教分離政策である。
 これはガンディーと共通項がある。インドは、ヒンドゥー教徒が大部分を占めるが、イスラム教徒やシク教徒など宗教マイノリティ(少数派の宗教を信仰する人々)も多数存在した。そのため、宗教マイノリティの支持を得るため、異教徒への寛容な政策がとられた。

このころの日本は

 

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 第三勢力を共に築いた中国は

 

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