10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

11世紀のイギリス ノルマン人がやってきた

 11世紀、日本は平安時代後期。10円玉に描かれている宇治の平等院鳳凰堂が作られた時代である。

 このころ、イングランドは大きな転換期を迎えていた。ノルマン人の侵入である。フランス貴族のノルマンディ公ウィリアムがイングランド国王になると、イングランドのフランス化が進んた。

 

 前回の復習 アンジュー帝国プランタジネット朝

 12世紀、プランタジネット朝が成立。プランタジネット朝は、イングランド以外にフランスの西半分を支配していた。そのため、プランタジネット朝は、アンジュー帝国と呼ばれた。

 さて、今回はプランタジネット朝の前のノルマン朝の成立を見ていく。

 

ノルマン朝成立前のイングランド

アングロサクソン

 11世紀、ノルマン人の侵入が始まる前、イングランドはアングロ=サクソン人が国王であった。アングロ=サクソン人は、ゲルマン人の一派で、5世紀中ごろの第一次民族大移動の際に、イングランドへ入植した。

クヌート王国(北海帝国

 11世紀初頭、イングランドにノルマン人の一派デーン人が侵入。デーン人のクヌートがイングランド国王となった。クヌートは元々デンマーク王であり、当時のデンマークノルウェーを支配していた。そのため、クヌート王時代のデンマーク北海帝国と呼ばれた。

エドワード証聖王によってデーン人の支配から脱却

 クヌートが亡くなると、デーン人は分裂。クヌート王国は急速に衰退した。イングランドでは、アングロ=サクソン(ウェセックス国)の国王が復活した。エドワード証聖王である。このころになると二圃制が一般化し、三圃制も始まった。そのため、経済的に豊かになりつつあった。

 エドワード証聖王は、キリスト教に熱心であった。ロンドンにウェストミンスター教会を建設。イングランド各地に教会を建設した。

 

スコットランドで王位継承戦争

マクベススコットランド王になる。
マクベスが亡くなるとイングランドに亡命していたマルカム3世が即位した。
これにより、スコットランド南部がイングランドの文化を取り入れるようになった。この地域では英語が話されるようになる。

11世紀前半のフランス

ノルマンディー公国

 8世紀から9世紀にかけて、フランス北部はヴァイキングの侵攻に悩まされた。10世紀初頭、ヴァイキングの一派と和睦した。ノルマン人のロロである。ロロはキリスト(カトリック)への改宗を条件にフランス貴族となった。ノルマンディ伯である。ノルマンディはフランスの北西部に当たる。

 11世紀初頭にカペー朝が成立すると、ノルマンディ伯はノルマンディ公に昇格した。

フランスではカペー朝が成立

 10世紀末、隣国フランスでは、カール大帝の血をひくカロリング家が断絶した。次の国王として立ったのがパリ伯ユーグ=カペーであった。11世紀後半には息子のフィリップ1世が国王になった。この時代から、フランスはカペー朝と呼ばれる。

ウィリアム1世イングランドを征服

ノルマン人、イングランドへ侵攻

 66年、イングランド国王エドワード証聖王は、後継者を指名せずに亡くなった。次の国王は、アングロ=サクソン系の有力貴族から選ばれる予定であった。これに対し待ったをかけたものがあった。フランスの有力諸侯であったノルマンディ公ウィリアムである。ウィリアムはイングランドへ侵攻。イングランドを制圧した。

イングランドへフランス文化がもたらされる

 66年のクリスマス、ウィリアム1世ウェストミンスター宮殿戴冠式を行った。
ノルマン朝の始まりである。ノルマン朝の時代から1世、2世が使われるようになった。フランスの風習が伝わった一例である。

 北欧の国々と関係が薄れ、フランスや神聖ローマ帝国、イタリアとの関係が強まった。アングロ・サクソン貴族は土地を没収され、フランスから来たノルマン人貴族に分けられた。また、高位聖職者はフランスやイタリアから招かれた。

 ウィリアム1世が世界初の土地台帳を作成した。これにより、安定した税収を得られるようになった。

このころ、イングランドにフランス文化が流入した。公用語もフランス語になった。これは14世紀の百年戦争まで続く

ウィリアム1世の死後、ノルマンディ公国とイングランドが分裂

 ウィリアム1世が亡くなると、分割相続が行われた。長男のロベールは、フランスのノルマンディ公国を相続。三男のウィリアム2世がイングランド王国を相続した。

 

フランスでは、第一回十字軍

 このころ、フランスでは第1回十字軍が編成された。ビザンツ皇帝はセルジューク朝の侵攻に悩まされていた。そのため、ビザンツ皇帝はローマ教皇に援軍をもとめた。

 ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)と叙任権闘争(教会人事権)の問題でもめていた。そのため、ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世ではなく、フィリップ4世に十字軍の編成を要請した。

 一方、フランスのカペー朝は、11世紀初頭に成立したばかりの若い王朝である。フィリップ1世もまだ2代目である。そのため、フィリップ1世はローマ教皇の権威をかなり欲していた。

 第1回十字軍は成功し、イェルサルムを奪還。イェルサレム王国が建国された。

このころ日本では

 

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 このころのフランスは

 

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