1950年代、日本は朝鮮特需に沸いていた。「ALWAYs 三丁目の夕日」の世界である。
国際的には、米ソ冷戦の真っただ中にあった。イランはその最前線にあった。その中でイランでは、モサデク首相がイギリスの石油プラントを国有化した。しかし、親米の皇帝派によるクーデターでモサデク首相は失脚。イランは親米国家として進む。
一方で、イラクではイラク革命がおこり、反米政権が樹立。中東情勢は緊迫化した。
イラン、モサデク首相の石油国有化宣言
第二次世界大戦後、議会は安定せず、親イギリスの短命政権が続いていた。
51年04月、反イギリスのモサデク首相が就任
51年05月、モサデク首相は、石油国有化を宣言。イギリス資本の石油利権を国有化した。これに対し、イギリス、アメリカは反発。モサデク首相はこれを警戒し、ソ連との関係を模索した。しかし、モサデク首相はイランの共産革命を警戒。また、ソ連もモサデク首相を警戒しうまく進まなかった。
冷戦とイラン
イランは、イギリス所有の油田がある。一方でイランの北西部のカフカス地方(カスピ海西岸)は、ソ連になっていた。そのため、イランは、冷戦のホットポイントであった。
50年代、冷戦は深刻化した。50年に朝鮮戦争が勃発。NATOやワルシャワ条約機構などの軍事同盟が結成された。
しかし、50年代こうはんになると、核戦争の危機から平和共存の方向へ向かう。ソ連のフルシチョフ書記長のスターリン批判はその一例である。この時代を「雪解け」という。
エジプトのスエズ運河国有化に影響
宗主国の資産を国有化する仕組みは、エジプトへ波及した。56年07月、エジプトはスエズ運河を国有化。これにより第二次中東戦争が発生した。
このような動きは、世界中に広まった。これにより、旧植民地は第三世界と呼ばれ徐々に国際的発言力を持つようになった。
海賊と呼ばれた男
石油国有化宣言に対し、アメリカとイギリスはイラン産石油を国際市場から締め出した。また、イギリスはイランに海軍を派遣。52年にはイタリア・スイス共同出資のタンカーが拿捕された。
そのような中、日本の出光興産はイランにタンカーを派遣。53年、無事日本に帰還した。タンカーの名前をとって「日章丸事件」と呼ばれた。
イギリスは、日本政府に圧力をかけ裁判で石油を取り返そうとした。しかし、日本の世論の後押し、アメリカの黙認があり石油を取り返すことができなかった。アメリカはイギリスの石油メジャーの独占を快く思っていなかった。
53年のクーデターで失脚
53年08月、皇帝派のクーデターで失脚。モサデク首相は逮捕された。皇帝派のクーデターの裏ではアメリカとイギリスが動いていた。イギリスは石油利権の奪還を目的としていた。一方で、アメリカはモサデク首相とソ連の連携を警戒していた。また、イギリスとアメリカの経済制裁でイラン財政は急速に悪化した。国民の不満も高まっていた。
パフレヴィー2世の親米政権
53年のクーデターで、パフレヴィー2世が新たな首相を指名した。54年、モサデク首相が国有化した石油利権をイギリス、アメリカ、フランス、オランダで分割した。この見返りに、アメリカはイランに対し、軍事的および経済的に援助した。57年、第二次世界大戦前から出されていた戒厳令も解除された。
対ソ連軍事同盟、バグダード条約機構
55年、イギリス、トルコ、イラン、イラク、パキスタンの5か国で軍事同盟バグダード条約機構を締結した。本部はイラクのバグダードに置かれた。58年7月、イラク革命でイラクが離脱。本部はトルコに移転。79年のイラン革命で解散した。
イラク革命
58年07月 ハーシム家のイラク王国で軍事クーデター、イラク共和国が成立した。首謀者は、首謀者はカセム将軍とアレフ大佐である。58年02月にエジプトとシリアが合同、反米親ソ政権のアラブ連合共和国とともに、イギリス・アメリカに脅威を与えた。また、イラクはバグダード条約機構から離脱した。
次回予告
「1940年代後半のイラン パフレヴィー朝 ソ連の脅威 」
このころの日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は