13世紀はモンゴルの世紀である。日本では鎌倉時代で、この時元寇を受けた。
この13世紀、フランスでは十字軍が行われていた。13世紀前半、フィリップ2世がイングランドを追い出し現在のフランスが成立した。 13世紀後半になるとモンゴルがヨーロッパや中東へも侵攻。イスラム軍も主力部隊がトルコ人となった。当時のフランス国王はルイ9世の時代である。
13世紀はモンゴルの世紀
13世紀はモンゴルの世紀である。モンゴルの大帝国はユーラシア大陸全域に影響を与えた。日本もこの時モンゴルの来襲を受けた。元寇である。ユーラシア大陸の西の端、ヨーロッパも例外ではなかった。
フィリップ2世と十字軍
第4回十字軍 02年 ビザンツ帝国を攻める
インノケンティウス3世は、再び十字軍を結成した。主力はフランスの諸侯である。第4回十字軍は陸路ではなく海路を採用した。そのためにイタリアの商業都市の支援を仰いだ。
最初に支援を求めたのはフランスに近いジェノヴァであった。ジェノヴァは当然拒否した。次に支援を求めたのはヴェネチアである。ヴェネチアは、この十字軍を使って商売敵のビザンツ帝国のコンスタンチノーブル(今のイスタンブル)を攻めた。大義名分は、東西教会の統一である。ヴェネチアは、この十字軍に成功。04年コンスタンチノーブルにラテン帝国を建国した。
イスラム教徒との交易(東方貿易)で栄えるイタリアの商業都市
当時、イタリアは統一されてなく、南部がシチリア王国、中部が教皇領となっていた。北部は、商業都市が乱立していた。当時の商業都市は自治が認められ、ほぼ独立国のようになっていた。その主力都市が北西部(フランス近く)のジェノヴァ(ちなみにサッカー選手キングカズ(三浦知良)がかつて所属していたジェノアCFCのホームタウン)と北東部(神聖ローマ帝国近く)の水の都ヴェネチア*1である。
これらの都市は、地中海交易で繁栄した。その内容は、エジプトのカイロでアジアの特産品を仕入れるビジネスである。その主力商品は香辛料である。冷蔵庫がないこの時代、肉を保存するのに香辛料は欠かせないものであった。そのため、香辛料は金とほぼ同じ価値があった。当時エジプトを支配していたのはイスラム教アイユーブ朝のサラディンである。彼が、十字軍の敵となる。そのため、イタリア商人は十字軍には消極的である。
09年、アルビジョワ十字軍
09年、インノケンティウス3世は、フランス国王フィリップ2世に南フランスのカタリ派を討伐を要請。カタリ派とは、キリスト教の異端の一つで、南フランスを中心に活動。フランス国王フィリップ2世は、この要請にこたえ南フランスに出兵した。
26年、ルイ9世が即位。29年、アルビジョワ十字軍が終わる。
アルビジョワ十字軍とイングランドの失地王ジョン王への勝利により、フランス国王の領地は拡大した。
史上最強のローマ教皇インノケンティウス3世
インノケンティウス3世(1198年に即位)は、神聖ローマ帝国の国王選挙で名をはせる。その後、意のままにならない国王を次々と破門して屈服させた。フランス国王フィリップ4世も13年再婚問題で破門させられた。 フランチェスコ修道会(托鉢修道会)ができたのもこの時代である。
インノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉を残している。
「破門」とは、キリスト教徒でないとすることに過ぎない。しかし、この時代、国王とはローマカトリックの擁護者である。そのため、国王はローマカトリックに破門されるとその地位を事実上失うことになった。
これを変えたのが1302年に成立した三部会である。
フランス尊厳王フィリップ2世とイングランド失地王ジョン王
12世紀のフランスは、諸侯の連合政権であった。国王の地位も連合政権のリーダーとしての地位しかなかった。フランス国王の収入源は、パリ周辺の国王直轄地からの税収に限られていた。当時、フランスで一番領地をもっていたのはイングランド国王であった。
フィリップ2世(1180年に即位)は、第3回十字軍でイングランド領を侵攻も失敗。
1199年イングランドでジョン王が即位。フランス国王フィリップ2世は、ジョン王の離婚問題を理由に再びフランス国内のイングランド領を侵攻。14年、フランスは大勝。フランス国内のイングランド領は、フランス南西部のアキテーヌ(ボルドー周辺)のみとなった。(この地がフランス領になるのは、15世紀の百年戦争の時である。)
ルイ6世と十字軍
第5回十字軍 28年 ドイツのフリードリヒ2世、外交でイェルサルムを奪回
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が行った十字軍。28年、エジプトアイユーブ朝の混乱をうけて出兵。大きな戦闘はなく。29年、外交交渉によってイェルサルムを奪還する。
最初の近代的な人間、フリードリヒ2世
フリードリヒ2世は、南イタリアのシチリア王国で生まれた。当時の南イタリアにはアラブ人も多かった。そのため、フリードリヒ2世はアラビア語も堪能であった。20年に神聖ローマ皇帝に就任したが、ドイツの経営は自分の息子に任せていた。イスラム教徒にも寛容で、ローマ教皇の十字軍遠征要請を断ったため。一度破門されたが、この十字軍で破門が解かれた。
第6回十字軍 48年 フランスのルイ9世、マムルークに大敗
モンゴルの来襲 バトゥとワールシュタットの戦い
40年、モンゴルのバトゥがヨーロッパ遠征が始まる。41年、モンゴルがポーランドに来襲。ポーランド王国は周辺諸国に支援を求めた。東方植民のドイツ騎士団や、神聖ローマ帝国(ドイツ、東フランク王国)が援軍を出した。しかし、モンゴル軍の圧勝で終わった。42年、モンゴル軍は神聖ローマ帝国のウィーンに迫った。しかし、この時、時のハーンであるオゴタイ=ハンが亡くなる。これにより、ヨーロッパ遠征は終わった。これにより、ポーランドは復活。神聖ローマ帝国は存続した。
ノートルダム大聖堂完成
45年、セーヌ川に浮かぶシテ島にノートルダム大聖堂が完成した。ゴシック様式の代表的な建築物でとんがり屋根とステンドグラスが特徴である。1793年のフランス革命期には「理性の崇拝」が行われた。また、1804年、ナポレオン皇帝の戴冠式も行われた。
46年、ワールシュタットの戦いを受けて、ローマ教皇は宣教師プラノ=カルピニをモンゴルに派遣した。
48年、ルイ9世は第6回十字軍をおこす。アイユーブ朝の首都カイロへ向った。しかし、トルコ系奴隷軍人マムルークに敗れ、捕虜にある大敗をした。50年にはこのマムルークがクーデターを起こす。マムルーク朝が成立した。
第7回十字軍 70年 フランスのルイ9世、チュニジアで病死
53年、モンゴルのフラグが中東遠征が始まる。
54年、フランス王ルイ9世、宣教師ルブルックをモンゴルに派遣 。マムルーク朝を挟み撃ちにする提案を行う。
58年、モンゴルのフラグがバクダード入城。アッバース朝を滅ぼす。
60年、モンゴルのフラグ、イル=ハン国を建国。同じとしてフラグは、エジプトのマムルーク朝へ侵攻するも失敗。
70年、ルイ9世、再びマムルーク朝へ侵攻。しかし、北アフリカのチュニジアで病死。フィリップ3世即位
85年、フィリップ4世即位
91年、イェルサレムのアッコンがエジプトのマムルーク朝の支配下になる。これにより十字軍は完全に撤兵した。
次回予告
なぜ、十字軍がはじまったのか
ローマカトリックの権威はなぜ高まったのか
「12世紀のフランス カペー朝 十字軍前半戦」
お楽しみに
このころの日本は
このころの中国は