1940年代前半のイラン パフレヴィー朝 第二次世界大戦中、テヘラン会談が行われる。
1940年代前半、第二次世界大戦の真っただ中にあった。
そのころにイランは、インドを支配するイギリスとイランの北の大国ソ連の支配下にあった。そして、イランはソ連に物資を流入する重要な拠点であった。
1943年、ソ連は、テヘランにて、イギリス・アメリカと会談に臨む
5分でわかる第二次世界大戦の流れ
- 39年 ドイツとソ連がポーランド分割
ドイツ・イタリア・日本 、ソ連 VS イギリス、フランス - 40年 ドイツ、イタリアはフランスを占領
日本は東南アジア(フランス植民地)へ侵攻 - 41年 日ソ中立条約
独ソ戦開戦(ソ連 ドイツ陣営からイギリス陣営へ)
太平洋戦争開戦(アメリカ 中立からイギリス陣営へ)
ドイツ・イタリア・日本 VS イギリス、アメリカ、ソ連 - 42年 防戦のイギリス陣営が反撃へ
ミッドウェー海戦、スターリングラードの戦い - 43年 米英が重要会談を頻繁に行う
カサブランカ会談、カイロ会談、テヘラン会談 - 45年 終戦
イラン進駐 イラン、イギリス・ソ連の支配下に
1940年、第二次世界大戦の真っただ中になった。当時のヨーロッパ情勢は、ナチスドイツ、ソ連 VS イギリス、フランスの関係であった。イランのレザー=ハンは中立の立場をとっていたが、実態はナチスドイツよりの立場をとっていた。
41年06月、ナチスドイツ軍がソ連へ侵攻。ソ連は、イギリス陣営(連合国)に入った。イギリスとアメリカはソ連へ物資の輸送経路を検討していた。そのルートとして挙がったのが、イランからカフカス地方経由でソ連へ物資を提供するルートであった。
41年08月イランの首都テヘランでは親ナチスの暴動が発生。それを口実に、イギリス、ソ連両軍はイランへ侵攻。イランは両軍に制圧された。41年09月、親ドイツ派のレザー=ハンは強制的に退位。その息子パフレヴィー2世が即位した。
翌42年01月、イラン、ソ連、イギリスの3か国条約を締結。この条約で、イランはドイツへの参戦が決まった。その条件として休戦6か月後に連合軍(イギリス、フランス両軍)は撤収することになっていた。これにより、連合国は、イラン経由でソ連へ物資を供給することが可能になった。これらの物資の一部は、イラクのイギリス軍やイラン経済にももたらされた。そして、43年09月、3か国条約に基づき、イランはナチスドイツに宣戦布告を行った。
43年11月 テヘラン会談
ドイツに宣戦布告した2か月後の43年11月、連合国の首脳がテヘランに終結した。イギリスのチャーチル首相、アメリカのローズヴェルト大統領、そして、ソ連のスターリンである。
イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ローズヴェルトはこの年頻繁に会談を行っている。
スターリンは連合国側に入って初めての会談になる。当時、ソ連は、ドイツとの戦争は始まっていたものの、41年締結の日ソ中立条約が有効に機能していた。この会議の最大の目的は、ソ連の対日参戦とそれに伴う戦後の勢力争いにあった。ここから、イギリス・アメリカとソ連の勢力争いが始まる。
この時点で、イギリスとアメリカで温度差が生じていた。太平洋戦争ではアメリカがミッドウェー海戦で勝利。ヨーロッパ戦線ではイタリアも降伏していた。イギリスは、戦力に乏しいドイツを相手にしていたのでソ連にはあまり活躍してほしくなかった。一方で、日本は敗戦濃厚でも、士気は高い。一方でアメリカ世論は厭戦モード。ソ連の参戦によって、早期、日本降伏を望んでいた。
ソ連は、この会談でソ連の対日参戦が決まった。(参戦タイミングは、45年のヤルタ会談で決定)。また、この会談でイランの独立も決定した。
イラクでは、反英運動が活発化。イギリスはイラクへ侵攻。
39年、第二次世界大戦勃発。40年、ナチスドイツ優勢の情報が入り、反英派の首相が誕生。反ユダヤ暴動や親英派の追放が行われた。41年01月、親英派首相が再び誕生したが、同41年04月、また反英派政権が樹立。これに対しイギリスは、イラクへ侵攻。(イラン侵攻の4か月前)。イラクは47年までイギリスの支配下に置かれた。
一方、アフガニスタンは、ソ連とイギリス(イギリス領インド)の緩衝地帯として中立を維持した。
次回予告 今週10日金曜日アップ予定
レザー=ハン皇帝はどのような政策をとっていたのか?
イギリスは、中東をどのように見ていたのか?
「1930年代のイラン パフレヴィー朝 イラン版明治維新を進めるレザー=ハン皇帝」
お楽しみに
このころの日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は