10世紀のフランス カロリング朝 パリ伯、カペー朝を開く
10世紀、日本は平安時代中期、遣唐使が廃止。ひらがなや寝殿造りなどの日本独自に国風文化が花開いた。
このころのフランスは、まだ西フランク王国と呼ばれていた。北部ではノルマン人の海賊行為に悩まされていた。ローマ教皇は、東フランク国王オットー1に戴冠。東フランク王国(ドイツ)と関係性を強める。そのような中、フランスではカペー朝が成立した。
ノルマンディー公国の成立
10世紀初頭、フランス北部はノルマン人の侵攻に悩まされていた。彼らは、セーヌ川を南下、パリまで侵攻した。
11年、フランス国王はノルマン人のリーダーロロと交渉。キリスト教(ローマ=カトリック)への改宗を条件にノルマンディー半島での定住を許可した。
ノルマン人は、その後、11世紀にイングランド、12世紀に南イタリアを領有
ノルマン人とは
ノルマン人は、バルト海沿岸の民族。8世紀ごろから北海沿岸に進出。交易や海賊行為を行った。また、河川を通じて内陸部まで海賊行為を行った。
ドイツ国王オットー1世の戴冠
一方、ドイツの下となる東フランク王国では、11年カロリング朝が断絶。フランケン朝が成立。19年、ザクセン朝成立。
36年、東フランク国王オットー1世が即位。55年アジア系のマジャール人を撃退。その後スラヴ民族を服従させた。
61年、ローマ教皇ヨハネス12世の要請でローマ遠征。イタリア王を兼任。62年、ローマ教皇から戴冠を受け神聖ローマ皇帝となり、ローマ帝国の正式な後継者となった、この後、神聖ローマ皇帝の地位はザクセン家が世襲する。また、神聖ローマ皇帝は、ローマ教皇の権威を利用して皇帝権を強化していく。
パリ伯ユーグ=カペー カペー朝を開き、フランス国王になる。
87年、西フランク王国もカロリング朝が断絶。ノルマンディー討伐で活躍したユーグ=カペーがフランス国王に就任した。しかし、神聖ローマ帝国とは異なり、教皇の権威が利用できないため、諸侯と連携をとりながらの政権運営を余儀なくされた。
この時期から現在まで、フランスの首都はパリとなる。
次回予告
フランスはどのような形で誕生したのか。
「9世紀のフランス カロリング朝 フランスの誕生 カール大帝とその孫たち」
お楽しみに
このころの日本は
このころの中国は