10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

8世紀の中国 唐王朝後期 楊貴妃とイスラム教が唐王朝を衰退させる。

 唐王朝は、財政難にあった。玄宗皇帝は、節度使制度を導入した。これにより、事実上封建制度が復活した。8世紀半ばになると、節度使による反乱やイスラム国家の侵攻でさらに衰退した。8世紀後半になると税制を改革。均田制は事実上崩壊した。

  国際色豊かな唐王朝の時代が続く。日本では、奈良時代で同じく唐やペルシアの影響を色濃く受けた文化(天平文化)が成立する。

封建制の復活 節度使の登場

 しかし、このころになると唐王朝財政難に陥っていた。兵役の義務を嫌った農民が多数逃亡した。彼らは、上級官僚の荘園の小作人になった。均田制の問題点は、逃亡農民が増えると財政難になる点にある。
 712年、玄宗が即位。玄宗皇帝は、均田制による府兵制(現在でいう徴兵制)を放棄して、募兵性へシフトした。それが節度使である。節度使は無給どことろか兵隊の給料も自分持ちであった。その代わりに、辺境地域の徴税権を与えられていた。封建制の復活である。この結果、唐王朝の税収は大きく減った。一方で、節度使はその後経済力を身に着けて9世紀にはほぼ独立国のようになる。これがのちの十国といわれる。

イスラムの進行(タラス河畔の戦い)

 8世紀の中頃、世界三大美女の一人楊貴妃後宮に入る。その結果外戚の楊一族が台頭していく。
 そのころ、イスラム教で王朝交代がおこり、シリア系のウマイヤ朝からペルシア系のアッバース朝に代わった。新興イスラム教国家アッバース朝は、唐王朝へ侵攻。唐王朝軍は、イスラムに敗北。(タラス河畔の戦い)中央アジア利権を失う。この時、紙を作る技術がイスラム社会へ伝わった。

節度使の波乱(安史の乱

 755年、楊一族が大臣になると、節度使の一人安禄山が反乱を起こす。安史の乱)。この戦乱によって長安は焦土と化した。これ以後の歴史で長安が都になることはない。安史の乱は、ウイグル軍の援軍を得てようやく鎮圧された。このころ、ウイグルは、ちょうどこのころ、トルコ系突厥に代わり台頭してきたころである。

 

税制改革 (事実上の土地の私有を認める。)

 節度使への徴税権の譲渡やウイグルチベットなどの異民族の侵入により、唐王朝の税収はほとんどなくなった。
 780年税制改革を行う。北魏から続いていた均田制に基づく租庸調制(家族の人数に応じて税金をかける)方法から財産に応じて税金をかける両税法に変更した。また、漢の武帝時代に行われた塩の専売も復活した。このころになると、均田制は崩壊し、土地の私有が始まった。均田農民の一部は、小作人を雇うようになり地主階級となった。彼ら新興地主層は、10世紀になると形勢戸(けいせいこ)と呼ばれるようになり、宋王朝時代に政治、経済、文化を担うようになる。

 

このころの日本は

 

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