10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1910年代の中国 中華民国 第一次世界大戦と清王朝の終焉

f:id:sekaishiotaku:20181225081933j:plain

ラストエンペラー溥儀

 1910年代、ついに清王朝孫文ら革命勢力によって倒される。しかし、革命勢力は権力を握ることはできず、袁世凱ら旧漢人官僚が支配するようになる。袁世凱の新政権に最初に降りかかった課題が第一次世界大戦である。新政権はイギリス、ロシアなどの三国協商側で参戦。日本とともに華北山東半島に勢力圏を持つドイツを攻める。この山東半島をめぐりのちに日中戦争に発展する。

  清王朝の衰退は、11年の鉄道国有化で始まった。これに対し、民族資本家(国内の資本家)や地方の有力者が反発。四川(3世紀に劉備が都をおいた江南の内陸部、イギリスの勢力圏)で暴動がおこる。これは同じ長江流域(イギリスの勢力圏)の武昌に飛び火、ついに革命派が蜂起した。ついに12年長江流域の南京に革命勢力によって中華民国政府が樹立した。(辛亥革命これは、アジア初の共和制国家(皇帝・国王がいない国家)となった。臨時大総統(選挙が行われるまでの大総統<大統領>)に孫文が就任した。華北北京の清王朝は、漢人官僚袁世凱軍を南京に向かわせた。しかし、袁世凱は、孫文から臨時大総統の地位を受ける代わりに清王朝を裏切った。これにより、ラストエンペラー溥儀は退位し、17世紀から続いた清王朝は12年幕を閉じた。
 12年に行われた選挙では、孫文ら国民党(中国同盟会が改組)が大勝した。しかし、臨時大総統袁世凱は国民党を解散させた。袁世凱は独裁を進めたが、地方軍人や外国の支持が得られず失敗。16年に亡くなる。その後は、地方軍人(軍閥)が独自の政治を行う戦乱期に入った。
 12年の辛亥革命のころ、清王朝に支配されていたチベットやモンゴルなどは独立を宣言した。
 一方、列強の状況は、華北は、首都北京以西は清王朝が独立を維持してたが、山東半島はドイツの勢力圏。対岸の遼東半島満州朝鮮半島は日本の勢力圏にあった。一方、江南は、長江流域と香港周辺はイギリス、台湾の対岸福建省は日本、香港の西~雲南省はフランスの勢力圏であった。そのような中、15年第一次世界大戦がはじまった。三国同盟国側は、ドイツ・オーストリア・トルコなど、三国協商側は、イギリス・フランス・ロシア・日本などである。当然中国の主戦場は、唯一の三国同盟の拠点山東半島になる。日本政府は、袁世凱臨時大総統に山東半島に持つドイツ権益の承継を求めた。(21か条の要求)。袁世凱臨時大総統はしぶしぶこれを飲んだ。19年のパリ講和会議で、再び山東半島の権益について話し合われたが、日本の主張が認められた。この事件を機に、中国民衆の間で反日感情が高まった。また、このころになると各地の軍閥は、列強との結びつきを強める。
 袁世凱によって解散させられた孫文中国国民党は19年再結成した。また、1921年には陳独秀らが中国共産党を結成した。 

 

そのころ日本は、

 

sekaishiotaku.hatenablog.com