2010年代のトルコ・ギリシャ ギリシャ国債危機とシリア内戦
おはようございます!sekaishiotakuです。今日から、トルコ・ギリシャ編をスタートさせます。
2010年代、ギリシャでは国債危機の問題で混乱しています。一方でトルコは隣国シリアの内戦が激化している状態です。
トルコとは
トルコは、中東の北西部にある大国である。首都はアンカラであるが、もっとも有名な都市はイスタンブールである。
大部分がアナトリア半島にあり、一部バルカン半島にも領土を持っている。アナトリア半島は、トルコ共和国に属し、北は、黒海があり、対岸にはロシアとウクライナがある。ロシアとウクライナが国境紛争を行っているクリミア半島も黒海の沿岸である。東は、観光地として有名なエーゲ海が広がる。その対岸は今回のもう一つの主役ギリシャがある。南には地中海が広がる。北東には、旧ソ連圏のコーカサス地方(ジョージアやアルメニア)があり、南東には、イラン(ペルシア)、イラク、シリアなどの中東諸国と国境を接している。
トルコの宗教は他の中東諸国と同じイスラム教である。しかし、西洋化政策の影響でイスラム色は他のイスラム諸国に比べると薄い。イスラム教では、女性はスカーフで顔を画すことになっているが、トルコでは、大学など公共の場では顔を隠すことは禁止されている。また、イスラム教では飲酒は禁じられているが、イスラム教徒以外のトルコ人は自由にお酒を楽しむことができる。
サラディンの再来といわれたエルドラン大統領
トルコの現在の大統領は、エルドラン大統領である。2000年代、経済面と外交面で成果を上げ、国民の支持を集めていた。しかし、長期政権はいずれ腐敗する。2010年代に入ると、エルドラン大統領(当時首相)に批判的勢力が登場した。
そのような中、トルコで憲法改正が行われ、大統領制が導入された。初代大統領になったのが、エルドラン大統領である。
クルド人問題
トルコの南東部に少数民族クルド人が生活している。長年トルコ政府とクルド人はは争っていた。現在、トルコはクルド人のとの和解交渉をしている。
また、クルド人迫害やコーカサス地方(トルコの北東部)のアルメニア人虐殺についても謝罪した。
ギリシャとは
ギリシャは、ヨーロッパの国でバルカン半島に南端にある国である。美しいエーゲ海と歴史的な名所に恵まれ、世界中から観光客を集めている。オリンピック発祥の地であり、聖火は毎回ギリシャのオリンピアで採火される。
バルカン半島
バルカン半島は、ヨーロッパの南東にある地中海に南へ突き出した半島である。西はアドリア海があり、その対岸にはイタリア半島がある。東には、黒海とエーゲ海がある。
南端は、ギリシャとトルコがある。西は、かつてユーゴスラヴィアという一つの国であったが、現在はセルビアなどの国に分裂している。東は、ブルガリアやルーマニアなどの東欧諸国がある。
ギリシャ国債危機
09年ギリシャで政権交代が起こった。新たな政権が調査したところ前政権が粉飾決算を行っていたことが判明した。これにより、ギリシャ国債が大暴落。スペインなどの財政状況が弱い国の国債も連動して暴落した。当時、08年のリーマンショックの影響でヨーロッパの金融機関は国債の比重を高めていた。そのため、国債の暴落はこれらの金融機関に深刻な影響を与えた。
IMFとEUは、ギリシャに対して緊急支援を行った。しかし、その条件として緊縮財政を突きつけた。公務員の削減、増税、年金の削減などギリシャ国民に大きな負担を与えるものが多かった。
緊縮財政により、財政は健全化された。しかし、ギリシャ国民の生活は困窮した。大規模なデモや暴動が頻発した。15年の総選挙で再び政権交代。緊縮財政反対派のチプラス政権が成立した。国民投票を実施し、ユーロ圏に残留することを前提にIMFの緊縮財政を否決した。そのため、現在も、ギリシャとEUの綱渡りの交渉は続いている。
シリア紛争
中東は、戦乱が止まらない地域である。2010年代、中東の最大の戦争はシリア内戦である。シーア派バース党のアサド政権とスンニ派の反政府組織との戦いであった。しかし、IS(イスラム国)やクルド人問題が絡んで現在も終戦の兆しが見えていない。
シリアとは
シリアとは、トルコの南にある国。地中海に面した中東の西の国である。ヨーロッパから見た中東の玄関口で商業国家として発展した。かつては、オスマン帝国の支配下にあった。
アサド政権とは
イラクのフセイン大統領と同じシーア派のバース党の政治家である。70年の無血クーデターで政権を掌握して以来長期政権を続けていた。シリアで多数派を占めるスンニ派から不満が出ていた。
アラブの春のきっかけはリーマンショック?
10年代の始まりは、すさまじい不況下にあった。その原因はリーマンショックによる金融不安である。そのため、若者の失業率は格段に上昇した。日本でも派遣切りが横行し、日比谷公園に派遣村ができたのがこのころである。イスラム圏でもその傾向は変わらなかった。アラブの春の発端になったチュニジアでは若者の3人に1人は失業者であった。
SNSで広まるアラブの春
アラブの春は、11年のチュニジア青年の焼身自殺で始まった。チュニジアの青年が許可なく露天商を行っていた。その日取り締まりで商品と商売道具の一切合切を没収された。青年は、商売道具の返還を求めたが、役人は賄賂を要求。賄賂を払えない青年は、役所の前で焼身自殺を図った。
イスラム教では、土葬が一般的である。それは最後の審判でよみがえるために肉体が必要とされるためである。そのため、焼身自殺は衝撃を与えた。この事件は同じ境遇の若者世代の共感を生んだ。チュニジア各地で暴動が発生。開発独裁をつづけていた大統領は亡命し、チュニジアの革命は終わった。
しかし、アラブの春は開発独裁を行うアラビア諸国へ飛び火した。エジプトでも長期政権が崩壊した。これらの革命を伝えたのは、新しい情報手段であるSNSである。FacebookやTwitterなどの政府の規制のかからない新たな情報メディアが結び付けた。
アラブの春はトルコにも飛び火した
アラブの春はトルコにも影響を与えた。エルドラン首相に批判的な勢力が台頭してきた。これに対し、エルドラン大統領はSNS規制を行った。これにより国際的な批判を浴びた。
シリア内戦のきっかけはアラブの春
アラブの春は、シリアのアサド政権にも牙をむいた。反政府組織スンニ派の自由シリア軍がアラブの春を利用してアサド政権打倒を目指した。
大国の思惑でシリア内戦は泥沼化
シリアの内戦は長期化した。その理由は、周辺諸国の介入である。シリア内戦はシーア派の政府軍とスンニ派の反政府軍との構図となった。そのため、政府軍側にはシーア派のリーダーであるイランが、反政府軍側にはスンニ派のリーダーであるサウジアラビアがついた。
また、シリアにはソ連時代からロシアを友好関係にあった。そのため、ロシア(プーチン政権)は政府軍を支援した。一方で、アメリカ(オバマ大統領)はロシアをシリアから撤退させる好機ととらえ、反政府軍を支援した。
ISIL(イスラム国)の侵入
このころ、イラク西部(内陸部)はテロ組織ISIL(イスラム国)が存在した。ISILの幹部は、イラク戦争の敗北で職を失った元イラクの幹部が多く含まれていた。シリアが内戦で無政府状態になると、シリア東部へ侵入。ISILはシリアとイラクにまたがる一定のエリアを勢力圏に置いた。これにより、シリアは政府軍(シーア派)、反政府軍(スンニ派)、ISILの三つ巴の戦いとなった。
ちなみに、18年のアメリカ(オバマ大統領)の掃討作戦により、ISILは消滅した。
トルコから見た、シリア内戦
シリアは、トルコの南隣の国である。後半では、トルコがシリア内戦にどのようにかかわっていたかを見ていきます。
トルコの介入
エルドラン首相は、シリアのアサド政権を支援しようとした。しかし、その条件にスンナ派のムスリム同胞団のメンバーを閣僚に入れることを要求した。ムスリム同胞団は、エジプトで誕生したスンニ派の組織である。アラブの春によって行われたエジプトの選挙では大勝。政権を獲得とした。(しかし、軍事クーデターで政権から追放された)。エジプト、ロシア、シリア、サウジアラビアなどの多くの国でテロ組織として認定されているが、トルコのエルドラン首相はムスリム同胞団を支援している。アサド政権はこの提案を拒絶した。
トルコは、シリアに経済制裁を行い、反政府組織を支援した。
クルド人の台頭と対米関係
トルコは、アメリカを中心としたNATO軍に加盟している。その理由は、ソ連軍の侵攻の恐れがあったからである。また、トルコはどちらかといえばスンニ派の国である。そのため、トルコはアメリカと同じ反政府組織を支援した。
しかし、トルコにはアメリカと1枚岩になれない問題があった。それがクルド人の独立問題である。クルド人は、トルコ、イラク、シリアの国境付近で生活した民族である。第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊した際にクルド人はそれぞれの国の少数民族となった。
アメリカ軍は、00年代のイラク戦争の際にクルド人に武器提供を行いフセイン政権を打倒に協力させた。さらに、ISIL掃討作戦でも中心となったのはクルド人組織である。トルコは、イラク戦争やISIL掃討作戦で台頭したクルド人がトルコに牙をむくことを恐れていた。
エルドラン大統領のシリア侵攻
16年頃から、トルコは、南西部(シリア国境付近)のクルド人武装組織とたびたび軍事衝突するようになった。19年、アメリカのトランプ大統領がアメリカ軍をシリアから撤兵させた。するとトルコ軍はクルド人掃討作戦を強化。シリアへ侵攻した。これにより、エルドラン大統領は国際的に批判を浴びた。
この頃の日本は
アサド政権を支援するイランとロシアは