10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

8世紀のイギリス アングロ=サクソン七王国の戦乱期

 8世紀、日本は奈良時代。大仏が造営されたころである。このころ、イングランドは戦乱期であった。この時代をアングロ=サクソン七王国時代と呼ばれる。この頃の中心は、北部のマーシア王国であった。この時期、イングランドで初めての法典が作られたのもこの時代である。

 

 前回の復習 アルフレッド大王の時代

 9世紀初頭、ウェセックス国によってイングランドは統一された。9世紀後半に入るとウェセックス国は最盛期を迎える。アルフレッド大王の時代である。

 今回から、ウェセックス国がイングランドを統一する前の戦乱期を見ていきます。この戦乱期は、アングロ=サクソン七王国時代と呼ばれる。今回はその終盤戦を最有力国であるマーシア国を中心に見ていきます。

アングロサクソン七王国の戦乱期

アングロ=サクソン七王国とは

 7世紀から8世紀にかけて、イングランドは、アングロ=サクソン人の王国が乱立し、互いに争っていた。この戦乱期をアングロ=サクソン七王国ヘプターキー)時代という。

 アングロ=サクソン人は、3つの部族に分かれていた。アングル人、サクソン人、ジュート人である。アングル人はイングランド北部(ブリテン島の中央部)に拠点をおいた。代表的な王国は後述するマーシア王国である。一方、サクソン人は、イングランド南部に拠点を置いた。代表的な王国は、9世紀にイングランドを統一したウェセックス王国である。ちなみにウェセックス王国の語源は、ウェスト(西)サクセンがなまったのものである。ジュート人はイングランドの南東部に拠点を置いた。

アングロ=サクソンとローマ教皇

 8世紀に入ると、アングロ=サクソン人のローマ=カトリック信仰は一般化していた。8世紀のローマ=カトリックは、どのような状況にあったのだろうか。7世紀の聖像禁止令によって、ビザンティウム(今のイスタンブール)の東方正教会と分裂した。さらに、8世紀初頭にイスラム勢力が西欧に侵入した。イスラム勢力は、スペインを征服し、フランスへ侵攻した。しかし、アッバース革命でイスラムの侵攻は止まった。これにより、ローマ=カトリックに平穏な時が訪れた。ピピンの寄進で国土を持つと大きな影響力を持ち始める。

 そのような中、イギリスのキリスト教はどのような状況であったのであろうか。スコットランドアイルランドは、昔からの修道院があり、その修道院を中心にまとまっていた。ローマ=カトリックは、新興勢力のアングロ=サクソン人を中心に布教を行った。ローマ=カトリックは、大陸に近い南部から布教を開始した。そのため、南部のジュート人やサクソン人のほうがキリスト教への結びつきが強く、北部のアングル人はキリスト教徒の結びつきはそれほど大きくはなかった。

マーシア王国の時代

マーシア王国とは

 8世紀、イングランドでもっと影響力を持っていたのは、北部アングル人のマーシア王国であった。

教会に課税して悪評を買うエゼルバルト王

 8世紀初頭のマーシア国の王は、エゼルバルトであった。この頃になるとイングランドでもキリスト教は一般的になった。キリスト教は大陸に近い南部から布教が始まった。そのため、北部のマーシア王国はキリスト教への信仰は薄かった。
 そのため、エゼルバルト王は教会に課税を行った。そのため、エゼルバルト王はこの資金力をもとに高い軍事力を持った。一方で、民衆の反感を追うことも多くなった。結果、家臣に暗殺されてなくなった。

イングランド最初の法典を作ったオファ王

 エゼルバルト王を継いだのはオファ王である。オファ王である。オファ王は、イングランドで最初の法典を編纂。イングランドの通貨となる銀貨の造幣も行った。この頃になると、イングランド王(ブリタニア王)として、大陸(フランク王国など)にも知られるようになる。

 しかし、オファ王が亡くなるとマーシア王国は急速に衰退した。9世紀初頭に南部サクソン人のウェセックス王国によって滅ぼされる。

イスラム教徒(ウマイヤ朝)の侵攻

イスラム教徒の侵攻

 8世紀のヨーロッパはどのような状況にあったのだろうか。7世紀に成立したイスラム教は瞬く間にオリエント世界を席巻した。その勢力は北アフリカまで及んだ。その中心はウマイヤ朝であった。ウマイヤ朝は、8世紀初頭スペインを征服。フランスへ侵攻した。これを食い止めたのがフランク王国宮宰のカール=マルテルであった。

 ウマイヤ朝はやがて、フランスへの侵攻ができない状態になった。それは、イラクで起きたアッバース革命である。これにより、ウマイヤ家は没落した。アッバース朝はヨーロッパではなく、中国(唐王朝)へ向った。

 フランク王国は、つかの間の平和を獲得した。しかし、9世紀に入ると新たな敵が登場する。ヴァイキング(ノルマン人)の侵攻である。

カール大帝の戴冠

 カール=マルテルの子、ピピンはフランク国王とのなった。初代国王となったピピンは権威付けを必要としていた。そこに目を付けたのが、ビザンツ帝国東方正教会)との対立が始まったローマ教会である。ピピンは、ローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)。フランク王国とローマ教会は密接な関係となった。そして、ピピンの子のカール大帝は800年のクリスマスにローマ教皇から冠を授かった(カール大帝の戴冠)。大陸でフランク王国が強大化する一方で、イングランドマーシア国は衰退していった。

 

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このころ、日本は

 

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 このころフランスは

 

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 新興勢力イスラム教は西欧へ侵攻

 

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